ドレスセラピー推薦の本、{愛の論理}を読みました。
恋とは、相手が持つ所有物(容姿、性格、才能、富、
仕事、家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する{相手に受容されることや、相手を支配することによって、相手と一体化したい}と願う感情である。
愛とは、自分という価値認識と成長意欲からうまれるものであり、相手がただ存在してくれることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意思と洗礼された能力によって実行しようとする、相手の幸福を願い成長を支援する行いである。
というのが、筆者 飯田史彦氏の愛の統合的定義です。「相手」という言葉は、「自己」でもあります。
前文の「相手」を、「自己」に置き換えてよんでみると・・・
恋の状態は、自分が自分を条件によって一時的に好きになることと同じ。自分のことが好きになったり、嫌いになったり、日常のちょっとしたことで一喜一憂する。
愛の状態は、自分が自分を愛することと同じ。
自分がただ存在していることへの無条件の自己愛を基盤に、努力によって洗練させていく行い。
になるのです。
ここで自己愛と、利己心、ナルシズムの違いをこう言っています。
自己愛とは、根本のところで自分を愛し大切にする無条件の気持ち。自分がただ存在するだけで価値があることを認識すること。
誰か他人を愛するためには、エネルギーを必要としそのエネルギーは、まずは自分自身を愛しているがゆえに自分の内部から生じてくる。
利己的な人とは、常に自分のことを心配し、誰であれ自分より多くのものを持っている人に対する燃えるような羨望でいっぱいである。こういうタイプのひとは、心の奥で自分を嫌っている。自分自身を認めていないのでたえず不安を感じて内なる安定がなく、基本的に自分自身に安心と満足がないから、そのために生まれる不安感を解消しようとして他人の愛や物を貪欲に求めてしまう心理状態。
ナルシスト的な人は、自分自身を賛美することには過剰な関心をもつが、物を手に入れることには関心がない。こういう人たちは、表面的には自分のことをとても愛しているように見えるが、実際は自分のことが好きではないのであり、彼らのナルシズムは利己心と同様に、自己愛の根本的欠如の過剰保障である。
いずれにしてもこういった利己的、ナルシスト的な人々は、自分を愛しているどころかむしろ逆に、“自分自身を最悪の敵として扱い、自分自身を徹底的に軽蔑している。”というのが特徴である。
まず、自分自身を愛していなければ、他人を愛する心のゆとりが生じてこないという仕組みが浮かび上がってくる。
人間が自分という存在をこの世界のなかで維持していくためには、根本のところで自分を愛し大切にする無条件の気持ちが備わっていなくてはならない。
それは、生命力の根源とでもいうべき原初的な自己愛。
乳児期の最大の課題は、このような無条件の自己愛を心の基底部にねずかせることといっていい。
そしてこの自己愛を努力によって自信、自己価値観へと
変容をとげたものがセルフエスティ~ムであり、これは優越感やうぬぼれとは異なり、“自分は自分なりにこれで大丈夫なのだ”という安定感に相当する。
だそうです。
私のなかで、言葉にできなかった想い・・・
自分を愛することと、エゴの違いってなんだろう・・・
人を愛するって、なんだろう・・・
が、やっとまとまったような、開放感を与えてくれたこの本。
自己愛とは、自分がただここに存在するだけで愛しくなるような絶対的な安心感があること。そしてこの自己愛は、乳児期にどれだけ両親から無条件の愛をうけとれたか・・・らしい。
でも、いま生きているどれだけの人が、私も含めて親から無条件に愛されたと感じているのだろう?
私は、小、中、高とニューヨークとロスのアメリカンスクールに通っていました。アメリカンスクールは、個性と自己表現、美しさの比較でポピュラーになれるかどうかの世界。
幼い頃からお人形のようにかわいがられて育った私は突然、別世界のアメリカで、私よりももっともっとお人形のようにキレイでかわいい子供たちに囲まれ、まるで私ひとりがチビクロサンボにでもなったような劣等感を覚えました。
ブロンドのブルーアイの女の子達は群れをなし、女王のように振る舞い、自分のことを醜いと思っていた私は目立たないようにちっちゃくなっていた・・・
今思うと、幼児期に健全な自己愛が育っていれば、このような極端な比較の世界でも、自分は自分、私はジャパニーズそれが何?って、どうどうと自己表現ができていたのでしょう・・・
こんな私だったから、結婚をしてから“自己愛を育てるレッスンのお試し”が次から次へとふりかかったのだとおもいます。
自分への条件付きの愛を一つ一つとりはずしていく試練
子育てがうまくいかなくても、
綺麗でも、可愛くもなくても、
環境が悪くてどーにもならなくても、
誇れる仕事がなくなっても、
体がわるくなっても、
一人ぼっちだとかんじても、
それでも、それでも自分にОKをだせるか、
自分をあいせるか・・・
どんどん丸裸にされていって、何も誇れるものをつけていない私の存在そのものだけになって、それでも生きている価値を自分にみいだせるのか・・・という乳児期に育てなきゃいけなかった無条件の自己愛を確立するやりなおしだったのですね。天からみたら、健全な自己愛がないと、他を愛するゆとりなどないと、ばればれ~だったのでしょう♪
成長の段階によって、人の愛の定義はいろいろだと思います。
私にとっての愛とは、
~純粋に自分を愛する無条件の愛のエネルギーを源泉として、他を愛そうとする努力と意図をもつこと~
ただ、あなたがいてくれるだけで、
あなたが存在してくれているだけで、
感謝できる私でいたいから。
そのためには、私自身からはじめなきゃいけないから。
私の一生は、自己愛を育てながらひっしに人とつながろうという努力でおわるのかもしれない。
それでも、
自分が自分でよかった、
自分に生まれてよかったと
最後に言える人生であればそれで十分だ。
愛の論理の本、お勧めです~
あなたにとって、愛ってなんですか・・・
恋とは、相手が持つ所有物(容姿、性格、才能、富、仕事、家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する{相手に受容されることや、相手を支配することによって、相手と一体化したい}と願う感情である。
愛とは、自分という価値認識と成長意欲からうまれるものであり、相手がただ存在してくれることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意思と洗礼された能力によって実行しようとする、相手の幸福を願い成長を支援する行いである。というのが、筆者 飯田史彦氏の愛の統合的定義です。「相手」という言葉は、「自己」でもあります。
前文の「相手」を、「自己」に置き換えてよんでみると・・・
恋の状態は、自分が自分を条件によって一時的に好きになることと同じ。自分のことが好きになったり、嫌いになったり、日常のちょっとしたことで一喜一憂する。
愛の状態は、自分が自分を愛することと同じ。自分がただ存在していることへの無条件の自己愛を基盤に、努力によって洗練させていく行い。
になるのです。
ここで自己愛と、利己心、ナルシズムの違いをこう言っています。
自己愛とは、根本のところで自分を愛し大切にする無条件の気持ち。自分がただ存在するだけで価値があることを認識すること。誰か他人を愛するためには、エネルギーを必要としそのエネルギーは、まずは自分自身を愛しているがゆえに自分の内部から生じてくる。
利己的な人とは、常に自分のことを心配し、誰であれ自分より多くのものを持っている人に対する燃えるような羨望でいっぱいである。こういうタイプのひとは、心の奥で自分を嫌っている。自分自身を認めていないのでたえず不安を感じて内なる安定がなく、基本的に自分自身に安心と満足がないから、そのために生まれる不安感を解消しようとして他人の愛や物を貪欲に求めてしまう心理状態。
ナルシスト的な人は、自分自身を賛美することには過剰な関心をもつが、物を手に入れることには関心がない。こういう人たちは、表面的には自分のことをとても愛しているように見えるが、実際は自分のことが好きではないのであり、彼らのナルシズムは利己心と同様に、自己愛の根本的欠如の過剰保障である。
いずれにしてもこういった利己的、ナルシスト的な人々は、自分を愛しているどころかむしろ逆に、“自分自身を最悪の敵として扱い、自分自身を徹底的に軽蔑している。”というのが特徴である。まず、自分自身を愛していなければ、他人を愛する心のゆとりが生じてこないという仕組みが浮かび上がってくる。
人間が自分という存在をこの世界のなかで維持していくためには、根本のところで自分を愛し大切にする無条件の気持ちが備わっていなくてはならない。それは、生命力の根源とでもいうべき原初的な自己愛。
乳児期の最大の課題は、このような無条件の自己愛を心の基底部にねずかせることといっていい。
そしてこの自己愛を努力によって自信、自己価値観へと
変容をとげたものがセルフエスティ~ムであり、これは優越感やうぬぼれとは異なり、“自分は自分なりにこれで大丈夫なのだ”という安定感に相当する。
だそうです。
私のなかで、言葉にできなかった想い・・・
自分を愛することと、エゴの違いってなんだろう・・・
人を愛するって、なんだろう・・・
が、やっとまとまったような、開放感を与えてくれたこの本。
自己愛とは、自分がただここに存在するだけで愛しくなるような絶対的な安心感があること。そしてこの自己愛は、乳児期にどれだけ両親から無条件の愛をうけとれたか・・・らしい。
でも、いま生きているどれだけの人が、私も含めて親から無条件に愛されたと感じているのだろう?
私は、小、中、高とニューヨークとロスのアメリカンスクールに通っていました。アメリカンスクールは、個性と自己表現、美しさの比較でポピュラーになれるかどうかの世界。
幼い頃からお人形のようにかわいがられて育った私は突然、別世界のアメリカで、私よりももっともっとお人形のようにキレイでかわいい子供たちに囲まれ、まるで私ひとりがチビクロサンボにでもなったような劣等感を覚えました。
ブロンドのブルーアイの女の子達は群れをなし、女王のように振る舞い、自分のことを醜いと思っていた私は目立たないようにちっちゃくなっていた・・・
今思うと、幼児期に健全な自己愛が育っていれば、このような極端な比較の世界でも、自分は自分、私はジャパニーズそれが何?って、どうどうと自己表現ができていたのでしょう・・・
こんな私だったから、結婚をしてから“自己愛を育てるレッスンのお試し”が次から次へとふりかかったのだとおもいます。
自分への条件付きの愛を一つ一つとりはずしていく試練
子育てがうまくいかなくても、
綺麗でも、可愛くもなくても、
環境が悪くてどーにもならなくても、
誇れる仕事がなくなっても、
体がわるくなっても、
一人ぼっちだとかんじても、
それでも、それでも自分にОKをだせるか、
自分をあいせるか・・・
どんどん丸裸にされていって、何も誇れるものをつけていない私の存在そのものだけになって、それでも生きている価値を自分にみいだせるのか・・・という乳児期に育てなきゃいけなかった無条件の自己愛を確立するやりなおしだったのですね。天からみたら、健全な自己愛がないと、他を愛するゆとりなどないと、ばればれ~だったのでしょう♪
成長の段階によって、人の愛の定義はいろいろだと思います。
私にとっての愛とは、
~純粋に自分を愛する無条件の愛のエネルギーを源泉として、他を愛そうとする努力と意図をもつこと~
ただ、あなたがいてくれるだけで、
あなたが存在してくれているだけで、
感謝できる私でいたいから。
そのためには、私自身からはじめなきゃいけないから。
私の一生は、自己愛を育てながらひっしに人とつながろうという努力でおわるのかもしれない。
それでも、
自分が自分でよかった、
自分に生まれてよかったと
最後に言える人生であればそれで十分だ。
愛の論理の本、お勧めです~
あなたにとって、愛ってなんですか・・・

