2016年12月17日の記事です。
2015年6月2日の記事です。
おはようございます。大竹ひろこです。
今、努力していることがあります。
それは「自慢をしない」ということです。
1を2にする3にする。すでにあるものに修正を入れることは容易いことです。しかし0から1を生み出すのは楽ではない。それには知恵が必要だから。
例えばプレスリリース。最初の原稿を私が書き、それに人が修正を加えていって最終稿が完成する。「いい出来だね」と褒められるのは修正を加えた人。いやいや最初の原稿を書いたのは私なのに。
例えば、ある人の記事が劇的に変わった。「すごくよくなったね!」と褒められるのは記事を書いた人。当然のことだけど、ついつい「あの人は私の文章講座を受けたんだよ」と声高に言いたくなる。それだけが原因ではないのに、自分の手柄にしたくなる。
「それ、私がやったの」「あ、あの人のあれは私のおかげだよ」「私がいるからうまくいったよね」人から聞けばイラっとするような言葉だけど、ついつい言いたくなってしまう。誰かに言いたい。誰かに自慢したい。だって褒められたいんだもん。正確には「自慢したい」じゃなくて「褒められたい」言わなきゃ伝わらないから。
だけど人はそんなにバカじゃない。誰かの成功の下に誰かがいるなら、そんなことには自然と気がつくもの。ただ口に出さないだけ。なのに「私が私が」とやってしまうと、その人の価値は地の底にまで下落する。
ああ、なんともったいない。こうして冷静に考えればそうわかるのに、ついつい「それ、私がやったんですよ」などとアピールしてしまう。「そうやってすぐ大竹さんは自分の手柄にしようとして~」と揶揄されるくせにやめられない。これはもしかしたら自分に自信がないせいなのかもしれない。
だから私は努力する。師匠である高橋政史氏の言葉を思い出す。
「自分のことは、もういいや」
早くこの境地にたどり着きたい。そうなるように今日も私は、のど元まで出かかった言葉を飲み込む訓練をする。
こんなことを書いていたんだな……。
一年半前の記事だ。
会社員時代、社長に「そうやってすぐ大竹さんは自分の手柄にしようとして~」とよく怒られていたんだった。
怒る人がいなくなったからか、フリーになってからは遠慮なく人に自分の功績を話している気がする。
でもそれは、相手のためだと認識している。自信がない人に「私がこのくらいできたんだから、あなたはもっともっとできるよ!」という意味合いで話している。
だけど、言い過ぎはよくないのかな。自分で書いた記事を読んで、自分の行いを振り返った。
ブログっていいですね。こうやって過去の記事を容易に読み返すことができる。同じSNSでも、facebookやInstagramではそうそうできないことだ。
だから、あなたの頭の中にあることをブログに書いて残しておくことをオススメする。
例えその内容がどんなにくだらないことだとしても、後に自分を振り返るよい材料になるから。
2015年に書いた記事を一年半後に読み返し、
その時のことを思い出して記事を書いたようですね、私。
2016年にはまだリブログという機能がなかったので、
こうやって点線で囲って記事の引用をしている。
それは今もやっていますけどね。
二重に囲ったのは初めてかも。
2015年の記事を書いた時、
私はまだ会社員でした。
社内でプレスリリースを書く仕事もしていました。
あんまり思い出せないのですけど、
たしかいつも私が下書きをして、
誰かがそれを直す感じでその文章が使われていたのだと思う。
今となってはそんなこと……
誰が下書きをして誰が直しをしようと、
結果が出たかどうかの方が気になりますけどね。
結果がどうであれ、
当時は給料がもらえる立場でしたから、
意識を向けるべきところがそんなところになってしまっていたようです。
自慢、ね。
自慢話、していますか?
私は自慢をしている気はさらさらないのですけど、
自分がしていることについてはべらべら人にしゃべっています。
時にそれは自慢になっているのかもしれないけれど、
それはあくまで「聞き手」の都合ですから。
どんな話が誰にとって自慢話になるかなんて、
誰にもわからないと思うのです。
そういう意味ではどんな人も、
自慢話をしてしまっていると私は思う。
例えば私が海外へ行った時の話をしたとする。
話し相手もしょっちゅう海外へ行く人だと、
あそこはどうだった、ここはどうだったと、
話が盛り上がるのです。
しかし全然行ったことがない人だとか、
数十年前に行っただけという人が相手だと、
こちらの情報とあちらの情報に相違がありすぎて、
なんだか話は盛り上がらない。
そして相手からは、
「自慢しやがってくそ〜」
などと思われているかもしれない。
ある人が屋久島に行った話をしたとする。
私は行ったことがないので「すげー!」となる。
自慢話になるかどうかの分岐点は、
「すげー!」となるか、
「くそ〜」となるか、
そこではないかと考える。
要するに、
話し手には何ら責任はなく、
すべては聞き手の問題だと考える。
かといって、
聞き手が嫌そうな顔をしているにもかかわらず、
その話を続ける話し手はどうかと思うけども。
そんな時はやっぱり、
「自慢話をしやがって」
聞き手はそう思っているのかもしれない。
私が最近聞いた自慢話はなんだろう?
ちょっと考えてみたけれど、
全く思い出せなかった。
きっと自慢話なんてされていないのだろう。
というより誰かの話を聞いた私が、
それを「自慢話だ」と認識していないのだろう。
会社員時代はもっと自慢話をされていた気がするけども。
この4年で私もずいぶん成長したものだ。
そう考えると、
話し手が「今私は自慢話をしている」と思っていたとしても、
聞き手はそう受け取っていない可能性があるのである。
おもしろいものだ。
世の中だいたい、
受け取り方の問題だ。
ということはすなわち、
「自分の問題」ということなのだ。
