文章プロデューサー大竹ひろこです。
私には仲良くしている産婦人科医がいます。依子先生です。私は彼女をよりぴーと呼び、彼女は私をぴぃちゃんと呼びます。今朝よりぴーからメッセージがあり、あれこれやり取りしていたら、「結局、人間は吸収力と排泄力だ」という話になりました。
よりぴー
「そうそう、上から出すか下から出すかだよ(笑)」
ぴぃちゃん
「真ん中とか、変なとこからも出すことあるよね。だそうとするのかな、ニキビとか」
よりぴー
「そうそう(笑)あれも排泄力の低下だから(笑)」
ぴぃちゃん
「あーなるほど。本来出すべきところじゃないってことか」
よりぴー
「そうそう、本来のところから出せないから変なとこから出してるだけ」
朝っぱらから何の話だというところですが、この話の大本は人間関係についてでした。なのになぜか体の話に。「吸収力」と「排泄力」の大切さを実感した朝です。
そうなんですよ。人間関係もこれに尽きますでしょ? 誰かと出会ってさまざまなことを吸収し、「もういいや」となったらサヨナラする。よりぴーの言葉を借りれば「全部人から物から大事なもの吸収していらなくなったら捨てる」ということ。心と体は同じだ、一心同体だ、なんて言葉はまさにこれで説明がつくと思うのです。
文章も全く同じ。どこかに行って何かを吸収し、それを紙の上やネット上の投稿として吐き出す。この吐き出すを「排泄する」と言い換えると語弊があるようにも感じますが、そうではないですよね。自分にはもう必要ないから出す、そういうこと。
文章の話になると、「私が書いたことが排泄物ですって? 冗談じゃないわよ!」とか言われそうですが、よーく考えてみてください。本当に違いますか?
だってまだ必要ならば頭の中に置いておけばいいじゃないですか。それなのになぜ「書く」のか? 今朝の話の流れからいくと、「自分にはもう必要ない」そう思うから「書く」ことで「出した」。いわゆる、吸収し終えたから排泄した、ということです。いかがでしょうか?
文章に関して言えば、一度「排泄する」と、次からは目で見ることができます。それを再吸収ととるか、「よしよし、私の排泄物は調子がいいぞ」などとする確認作業、いわゆる体調チェックととるか。これは自分が決めることですよね。
自分が書いた文章を読んで、新たな気付きを得ることってありませんか?そんな時は「再吸収」していることになるし、「なんか暗い文章だな」などと感じて、自分の心の状態を知るバロメーターとすることもありますよね。そんな時は体調チェックになるわけです。どうです? それだと反論できないでしょう?
やっぱりそうなんですよ。よりぴーが言った「全部人から物から大事なもの吸収していらなくなったら捨てる」これに尽きる。人間はコレ!全てのことがコレで説明できるんですよ。
いやあ、やっぱりプロの意見はおもしろい。専門があるとは言え、あらゆる知識を頭に詰め込み、あらゆる症例に触れてきた人の意見はおもしろい。そこに真実がありますね。あ〜楽しかった。
ということで……
「書く」という行為は「吸収」と「排泄」を合わせた行為になるわけです。
文章だって、本来出すべきところに出さないとニキビのように変なところがふくらんで不格好になったり、痛んだり、かゆくなったりしちゃいますよ?
そしてそれに気付かず(もしくは目をつぶって)放置すると、大病につながったりしちゃいますよ?
さて、あなたは今日、どんなことを吸収し、どんなものを排泄しますか? (←ここだけ読むと文章の記事とは思えないけどね♡)
文章も人が生きるための無意識行為も原理原則は同じ。そう考えれば、特に何事かを考えなくても、「書く」はできそうですね(*´艸`*)