アナタの人生1区間伴走プロ
クレバーでチャーミングを目指す
たなかともこです。
2015年4月の家族旅行で
ペルーに行きました。
行くまで 「貧富の差」という言葉を
字面(じづら)でしか知らなかった、と思いました。
窓ガラスの入っていないうつろなビルには
ときどき 窓代わりの布がかかっていたりします。
3階建てになりそうな建物は
2回までしか出来ておらず
鉄筋がむき出して 屋根は本来床になるべきところ・・・
そこにテントシートを張り
そのしたに 洗濯物を干し
同時に生活用品も並んでいる
夜中12時過ぎても 外で遊ぶ小学生達
停車している車に物売りをする子供
夜10時過ぎに制服を着て帰宅する子供達
家とは 癒える 場所ではないの?
箱のようなその家に
住むという状況が想像出来ない私・・・・
なんてえらそーなの、
わたし?!
そう、どんな状況が幸せで 不幸かを決めるのは
ほんとにそのひとによる。
たとえば 今何かがおこって
今晩からあの家に私達が住まなければいけなくなったら
雨露をしのぐことの出来る屋根に感謝するんじゃないだろうか。
子供達のために とにかく働かなくては、と
思うのではないだろうか。
そして不幸なんて感じているヒマは あるんだろうか。
不幸だってのは 自分の中のなにかと比較した状態のことで
生きて家族といられてみんな健康だったら
それでいいんじゃないんだろうか。
・・・ああ、私が
海外支援とかにあまり興味がない理由が少しわかった。
わたしたちは そんな
えらそーなものではない。
私にとって 他人の人生は他人のものだ。
私のものが 私以外のヒトに決められるものではないように。
そして別の見方をすれば
「欲しいモノ」「人生の目的」が明らかな彼らは
明らかに真っ直ぐで光り輝くエネルギーを発してる。
生きる、ということに
あんなに真摯でダイレクトな感情をもち
それって ある意味 とても幸せなのではないか。
なんでもある先進国には
自分が何をすべきかが見えなくなって
心を病むひとが多い。
周りがなんでも持っているからと
それなら奪ってしまえばいい、という
昔からの愚かな人間の考え方を持つヒト。
その周りの人より
物質的に優位に立ちたいと
成功とか利益とか
そういうものを追い求めて
空虚感にさいなまれるヒト。
私達は 生まれ落ちた時から
「満たされてある」状態なんだ。
「もっている」「満たされている」ところから
次に望むべくは 全くちがうところ。
前例、目指すものというのは
あまりに目立たないもので さがしにくいかもしれないけど
ほんとは すぐそこに落ちているもの。
全然ちがうチャレンジを通してでしか得られない
平穏と感謝の世界。
それは 宗教でも抽象的にしかいわれていないから
考えてしまったら 難しいコトだと思う。
でも本当は とってもシンプルで
とても有り難いコトなのだと思う。
ペルーの田舎町で感じた ざわざわしたものは
私が思っている物質的な幸せとはちがう
日々の幸せを享受し感謝している人達の
まったく違うエネルギー。
持つことが悪いのではない。
心を見失うことが悪いんだ。
あそこで感じたことはもっと沢山あります。
特に 国を出て根付いた「日系人」と呼ばれる人達と
あちこちで接点を持ってきたこの数年があるから
ペルーって国は いろんなものを感じました。
真面目で勤勉でルールが好き
時間には比較的きっちり
でも自然とのつながりを当たり前に感じている人々
それがペルーのひとたち。
日系人も 住み着きやすかったに違いない。とか。
まだまだ うけとって私の心を揺さぶって
私から言葉として出てこないものも沢山あるけれど
必要な時期にあの土地に行かせて貰った
そんな気がします。
クレバーでチャーミングを目指す
たなかともこです。
2015年4月の家族旅行で
ペルーに行きました。
行くまで 「貧富の差」という言葉を
字面(じづら)でしか知らなかった、と思いました。

都市部ではモダンですっきりしたおしゃれなビルと
観光客ばかりの豪華なホテルの隣に
いまだ 日干し煉瓦で作って 窓もない 家。
少し都市から離れたら
道路の舗装もされていない
車は殆どが三輪車
家々に 屋根もなく テントシートという小さな町で
ぱりっとした制服で学校に通う子供達
学校の建物には防犯の鉄条網と
窓には鉄格子。
窓ガラスの入っていないうつろなビルには
ときどき 窓代わりの布がかかっていたりします。
3階建てになりそうな建物は
2回までしか出来ておらず
鉄筋がむき出して 屋根は本来床になるべきところ・・・
そこにテントシートを張り
そのしたに 洗濯物を干し
同時に生活用品も並んでいる
夜中12時過ぎても 外で遊ぶ小学生達
停車している車に物売りをする子供
夜10時過ぎに制服を着て帰宅する子供達
家とは 癒える 場所ではないの?
箱のようなその家に
住むという状況が想像出来ない私・・・・
と、おもったところで思い直す。
なんてえらそーなの、
わたし?!
そう、どんな状況が幸せで 不幸かを決めるのは
ほんとにそのひとによる。
たとえば 今何かがおこって
今晩からあの家に私達が住まなければいけなくなったら
雨露をしのぐことの出来る屋根に感謝するんじゃないだろうか。
子供達のために とにかく働かなくては、と
思うのではないだろうか。
そして不幸なんて感じているヒマは あるんだろうか。
不幸だってのは 自分の中のなにかと比較した状態のことで
生きて家族といられてみんな健康だったら
それでいいんじゃないんだろうか。
・・・ああ、私が
海外支援とかにあまり興味がない理由が少しわかった。
わたしたちは そんな
えらそーなものではない。
私にとって 他人の人生は他人のものだ。
私のものが 私以外のヒトに決められるものではないように。
そして別の見方をすれば
「欲しいモノ」「人生の目的」が明らかな彼らは
明らかに真っ直ぐで光り輝くエネルギーを発してる。
生きる、ということに
あんなに真摯でダイレクトな感情をもち
それって ある意味 とても幸せなのではないか。
なんでもある先進国には
自分が何をすべきかが見えなくなって
心を病むひとが多い。
周りがなんでも持っているからと
それなら奪ってしまえばいい、という
昔からの愚かな人間の考え方を持つヒト。
その周りの人より
物質的に優位に立ちたいと
成功とか利益とか
そういうものを追い求めて
空虚感にさいなまれるヒト。
私達は 生まれ落ちた時から
「満たされてある」状態なんだ。
「もっている」「満たされている」ところから
次に望むべくは 全くちがうところ。
前例、目指すものというのは
あまりに目立たないもので さがしにくいかもしれないけど
ほんとは すぐそこに落ちているもの。
全然ちがうチャレンジを通してでしか得られない
平穏と感謝の世界。
それは 宗教でも抽象的にしかいわれていないから
考えてしまったら 難しいコトだと思う。
でも本当は とってもシンプルで
とても有り難いコトなのだと思う。
ペルーの田舎町で感じた ざわざわしたものは
私が思っている物質的な幸せとはちがう
日々の幸せを享受し感謝している人達の
まったく違うエネルギー。
持つことが悪いのではない。
心を見失うことが悪いんだ。
あそこで感じたことはもっと沢山あります。
特に 国を出て根付いた「日系人」と呼ばれる人達と
あちこちで接点を持ってきたこの数年があるから
ペルーって国は いろんなものを感じました。
真面目で勤勉でルールが好き
時間には比較的きっちり
でも自然とのつながりを当たり前に感じている人々
それがペルーのひとたち。
日系人も 住み着きやすかったに違いない。とか。
まだまだ うけとって私の心を揺さぶって
私から言葉として出てこないものも沢山あるけれど
必要な時期にあの土地に行かせて貰った
そんな気がします。



