1963年3月 栃木の田舎に第一子の長女として生まれる。2年後に弟誕生。
弟が糖尿病1型と診断(小学校上がるか上がらないかの時だった気がする)され、しょっちゅう低血糖で救急車搬送、入退院を繰り返す。
母が車の免許を持っていないのと、田舎なので交通手段もないので一度入院すると病院に泊まり込み、父は単身赴任でほとんど帰ってこない(月に1、2回?)
父方の祖父母もいたけど、母をいびり倒してたのでわたしは全くなつかず。
一人で頑張っている大好きなお母さんをいじめる大嫌いな祖父母という認識。
そして、田舎なので一番近い同級生の友達の家までも3キロ以上あったので、いつも学校から帰ってきたら人ではなく(笑)飼ってた犬と猫と一緒に、田んぼや畑や山を駆けずり回っていた幼少期。
一人でさみしかった、悲しかった、お母さんやお父さんと一緒にいたかったという気持ちを押し殺し、弟も病気なのでわがまま放題してて、大好きなお母さんはそれにも手を焼いていたので、わたしが我慢すればいい。わたしだけはわがまま言わないでお母さんを助けてあげる。わたしが我慢することがお母さんを楽にできるただ一つのこと、と子供心に誓ったんだと思う。
部活とかお小遣いとかでわたしにお金を使わせて申し訳ないから早く大人になりたい!かわいそうなお母さんにこれ以上負担をかけさせたくない!大人になればお母さんを助けてあげられるのに!親孝行してあげられるのに!と思っていたので、高卒後の進路を決める時調理師の専門学校に行きたかったんだけど、ちょうど実業団バレー部員を募集してた企業があったので、バレーボールは今しかできないのと、親にお金の負担をかけさせなくて済むので、この会社に入社し寮に入ってバレーボールに明け暮れる。
本当は、じめじめした暗い家を出たかった。
20歳。会社を2年で退社し、ホステスに転向。
その店に客で来ていた人と結婚するため、店を4年で引退、家庭に入る。
(10歳上だしバツイチ(バツイチ大好きだった)だから甘えられそう、彼のお父さんもお母さんも妹弟たちも全員揃っていて仲が良くてあったかいおうちだったので、遊びに行ってそのまま住み着いてしまった)
24歳。専業主婦となり長男出産、26歳で次男、28歳で長女を出産。3人の子の母になる。
長男出産の半年後に母が脳幹出血で脳死。一週間後に心停止。享年51歳。
長女の出産の時、長男が先天性の難病と診断される。定期的に大学病院に通院。
貴子34歳くらい?その難病が骨髄移植をすれば治る可能性があることを知り、骨髄バンク運動に参加。
36歳。そこで知り合ったジャーナリストがソニーのバイオちゃんを持っていて、その人の勧めでわたしも同じパソコンを買う。
ネットで血液難病の患者会やメーリングリストがあることを知り参加。
と同時にチャットにハマる。ネット依存症だった
そこで運命の出逢い。
好きな人ができてしまい交際が始まる。
貴子37歳。父が肺がん末期と診断され入院。その時は父は実家に戻って事業をしていたが自分一人でやってたので資金繰り&返済ができなくなり倒産。その三ヶ月後に肺がんのため死去。享年64歳
わたしの夫も父のために自分名義でサラ金を借りてくれていたので、返済できなくなり任意整理。
45歳。36から交際していた好きな男に操を立てたいがために夫と離婚
46歳。長男の難病が白血病に急転し、わたしの骨髄を移植するも感染症で死去。享年21歳。
この前後に渋谷の某カウンセラー学校に通い、プロカウンセラーコース終了。
47歳。東京に引っ越し一人暮らしを始める。
直後にうつ病発症。
そして仕事中に突然気持ち悪くなり立ってても寝ててもダメ、ぐるぐる目が回る。怠くて何もできない症状が出て、やっとの思いで早退し家に帰る。三日三晩起き上がれず寝込む。
のちにそれはパニック障害の症状だったと知る。
そしてこの何年も前からパニック障害の症状が出ていたことに気づく。
そしてこの何年も前からパニック障害の症状が出ていたことに気づく。
51歳。Facebookに流れて来た心屋仁之助さんの記事うつとパニックはなまけ病?!の中に書いてあった
お母さんはしあわせそうだったか?の文字を見て身体中に衝撃が走る。
今までどうして自分がパニック障害になったのか
(うつは子供を亡くしたことによるものだったからある意味原因がはっきりしていた)
心療内科に行ったり本を読んだりネットで調べたりしても
がんばりすぎだとか、セロトニンがどうのとかノルアドレナリンがどうだとか
ぜんっぜんピンとこない答えばっかりで
不安で苦しいんです、すぐ涙が出てくるんですっていうわたしの訴えにも
じゃあ不安を軽減させるお薬出しておきますね。
じゃあ気分が楽になるようなお薬出しましょう、ばっかりで
お母さんはしあわせそうだったか?の文字を見て身体中に衝撃が走る。
今までどうして自分がパニック障害になったのか
(うつは子供を亡くしたことによるものだったからある意味原因がはっきりしていた)
心療内科に行ったり本を読んだりネットで調べたりしても
がんばりすぎだとか、セロトニンがどうのとかノルアドレナリンがどうだとか
ぜんっぜんピンとこない答えばっかりで
不安で苦しいんです、すぐ涙が出てくるんですっていうわたしの訴えにも
じゃあ不安を軽減させるお薬出しておきますね。
じゃあ気分が楽になるようなお薬出しましょう、ばっかりで
そうじゃない。なんか違う。
薬で症状を消してもそれって絶対なにかが違う。
薬で症状を消してもそれって絶対なにかが違う。
わたしの悲しみを勝手に消すなー!
わたしのさみしさをなかったことにするなー!感じさせないようにするなー!
とものすごい抵抗をしていた理由(わけ)が、心屋仁之助さんのブログを読んでようやく分かった。
それから心屋さんのブログを貪るように読み始める。
心療内科で云われた『がんばりすぎですね』という言葉。。。
わたしは昔からおさぼりさんで、会社とか休むのも平気だし自分を甘やかすのも平気だから
ぜんぜんがんばってないよ~と思っていたんだけど
心屋さんのブログを読んで、人に甘えないことを頑張ってたんだ。とわかった。
人に甘えられない、人に頼れない。悲しい、さみしい、苦しいが云えない。
云ったら大切な人に負担をかけてしまう。迷惑をかけてしまう。そしたら愛してもらえない。というカンチガイ。
子どものとき、お母さんはかわいそうだからわたしが助けてあげる!
わたしさえいい子でいたらお母さんが喜ぶ、だからさみしい悲しいって云ったらダメ。
って決めたのを思い出し
もうそんな自分をやめよう、これからは人に頼って甘えて生きていこう。
わたしはいいの、わたしよりあの人のほうが大事。彼のほうが大切って思っていたのもやめる。
と決意する。
もうそんな自分をやめよう、これからは人に頼って甘えて生きていこう。
わたしはいいの、わたしよりあの人のほうが大事。彼のほうが大切って思っていたのもやめる。
と決意する。
(ここから追記 H29.9.7)
その16年付き合っていた彼(ツインレイ)がマスター受講中に突然音信不通になる。(サイレント突入)
このとき52歳だったんだけど、心屋マスターで感情を出してもいい感じてもいい、と許可できたぶん、52年間で一番苦しい出来事だった。子どもが亡くなった時よりしんどかったーーーーーー。
子供も自立させたし、親ももういないし、弟とも親戚とも付き合いないし、友達も要らない。彼と逢えたからそれだけでいい。やっと今生で再会できたひと。彼だけいれば生きていける。いろいろあったけど彼だけいればしあわせと思っていたのにその彼が突然いなくなって、マスター卒業後のテンションが下がる時期も相まって絶望、無気力、罪悪感、無価値感の嵐でした。わたしにはもうなにもなくなった、人生終わったし、生きていてもしょうがない、と思った。
でもその苦しんだ中1年7ヶ月の間に、問題なのは相手ではなく、すべて自分、ということを識りました。
今までの出来事は全部、自分を後回しにしないで、自分を一番大事にしなさいということに氣づかせるために起きたこと。自分の子どものときからの前提通りになっていたということ。
そしてどんな出来事も、必ずよくなるために起きていたということ。
どんな悲しいことがあっても、物事の捉え方一つで楽しく、しあわせに生きられるということ。
を識りました。
今までマスターを卒業してもなにもやる気が起きなかったのは、自分がこんなひどいダメダメな状態でぜんぜん大丈夫じゃないのに、人に大丈夫だよなんて云えなかったから。
でももう、わたしは大丈夫になったから、人にも心から大丈夫って云える。
状況も状態もなんっっっにも変わってないけど、わたしは大丈夫って体感したから。
昔の『わたしは大丈夫』は強がりだったけど、今はほんとのなにがあっても今が最悪でも、わたしにはわたしがいるから、絶対見捨てないから、いつも味方だから、わたしのたいせつなものが全部失くなってもわたしにはわたしがついてるから大丈夫!っていうことがわかったから。
でもその苦しんだ中1年7ヶ月の間に、問題なのは相手ではなく、すべて自分、ということを識りました。
今までの出来事は全部、自分を後回しにしないで、自分を一番大事にしなさいということに氣づかせるために起きたこと。自分の子どものときからの前提通りになっていたということ。
そしてどんな出来事も、必ずよくなるために起きていたということ。
どんな悲しいことがあっても、物事の捉え方一つで楽しく、しあわせに生きられるということ。
を識りました。
今までマスターを卒業してもなにもやる気が起きなかったのは、自分がこんなひどいダメダメな状態でぜんぜん大丈夫じゃないのに、人に大丈夫だよなんて云えなかったから。
でももう、わたしは大丈夫になったから、人にも心から大丈夫って云える。
状況も状態もなんっっっにも変わってないけど、わたしは大丈夫って体感したから。
昔の『わたしは大丈夫』は強がりだったけど、今はほんとのなにがあっても今が最悪でも、わたしにはわたしがいるから、絶対見捨てないから、いつも味方だから、わたしのたいせつなものが全部失くなってもわたしにはわたしがついてるから大丈夫!っていうことがわかったから。
だから、始動します。
みんなカウンセリング受けに来いーーーーーーーーーーーー!!!
どんな苦しくたって大丈夫だって云ってやるー!
いっくよーーーーーーーーー!!!
と思って、不幸好きも苦労ももういらない、波乱万丈手放す。フツーの幸せでいいって呟いてたのにH29.11.27に脳出血を発症する。3日後に病院行って診断された。安静にしてただけで手術もすることなく、後遺症も全く残らず一週間ほどの入院で退院。これはたぶん強制甘えなさい。強制みんなの愛を受け取りなさいだと思う(H30.1.10追記)
もうここまで来たら波乱万丈はネタだわ。
ドラマチックを体験したくて、いろんなアトラクション盛りだくさんにしようって決めて生まれて来たんだな。
(以下、令和3年2月1日加筆修正)
今現在、約3年のサイレント期間が終了して今は仲良し(笑)これからはわたしのできることと彼の得意なことを統合して世界に愛と光を撒き散らしていこうと思ってます。
でわたしは、カウンセラーよりも霊視カウンセラー・チャネラーヒーラーとして活動しています。
51歳。 (2014年 12月頃) 心屋塾Beトレ会員になる
52歳。 (2015年 6月) 岡田孝常(オカピー)の初級セミナー受講
52歳。 (2015年 6月) 岡田孝常(オカピー)の初級セミナー受講
(2015年 7月) 田中佐緒利(さをりん)のオープンカウンセリングで大崩壊
53歳。 (2016年 4月) 心屋リセットカウンセリングマスター取得
心屋認定心理カウンセラー(約月1回開店 天岩戸食堂)
心屋認定心理カウンセラー(約月1回開店 天岩戸食堂)
57歳。(2018年 11月) 穴口恵子校長先生のドルフィンスターテンプルミステリースクール国際認定ヒーラー取得
