東子は寝殿の出来事に気を取られていた。
「何をするつもりなの…」
ふと気配を感じて釣殿の下を見た。
すると、池の水際に子犬が座っていた。

「あら、かわいい」
東子は一目でその子犬を気に入った。
「!」
子犬が口に何かを咥えている。
文の様にも見える。
東子は予感がした。
「少し、一人になりたい…」
東子には見張りの端女がついていた。
「ですが東子様、仲成様の…」
「屋敷の中です、逃げも隠れもいたしませぬ」
「それに、お兄様はあそこにいるではござりませんか…」
そう言って東子は寝殿の仲成を指さした。
「今の私にはそういう時が必要なのです!」
東子が口調を強めた。
「では、何かあればお呼びください…」
東子の心の内を察し、端女は奥に下がった。
「ちょっと待っててよ…」
東子は考えた。
柵が邪魔をして、手を伸ばしても届きそうにない。
「そうだ!」
そう言うと東子は着物を一枚脱いだ。
そして片方を帯紐で柵に結んだ。
「これでいい!」
東子はもう片方を持って柵から半分身を乗り出した。
手を伸ばすと着物が地面の近くまで垂れ下がった。
「着物に乗って、さあ早く!」
東子は嵐に着物に乗るように言った。
ただの子犬ではない。
だが、東子はまだその事を知らない。
嵐は仕方なく着物の上に乗った。
すると東子は着物を思い切り引っ張った。
その勢いで小さな嵐のからだが宙に浮いた。
その嵐を東子が抱き上げた。
「お利口さんね」
東子はそう言って嵐の頭を撫でた。
「それ、私にでしょ?」
東子は嵐が咥えていた文を手に取った。
嵐が文を落とさなかったのは、奇蹟と言えた。
「ちょっとこれを…」
着物を元に戻さないと逃げるためと思われてしまう。
先に東子は着物を着て身なりを整えた。
「見た目とはずいぶん違うな…」
「えっ!誰?」
嵐がとうとう喋ってしまった。
「紗那が好きになったのも、そういうわけか…」
その声に東子が目を丸くして驚いている。
「犬が…喋った…」
東子はそう言って口を開けたままだ。
「犬ではない、俺は神だ!」
嵐はいつものようにそう言った。
「神…様…?」
東子はその事実を理解出来ないでいた。
「いいからそれを読め…」
東子は嵐の事が気になりながらも、手にした文を開いた。
「あっ」
その瞬間、東子の瞳から涙が溢れた。
「紗那…」
それは愛しき紗那の文字であった。
「生きて…いるのね…」
東子は無意識にそれを抱きしめていた。
涙で声が震えている。
「どうして…これを…」
泣きながら東子は嵐に聞いた。
「紗那に頼まれたからに決まっておるじゃろ…」
嵐が呆れてそう言った。
「それにその理由は本人に聞け…」
「会えるの!紗那に!」
東子の心が震えた。
「それは奴らに聞け」
嵐がそう言って寝殿に顔を向けた。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-