「結婚もして、仕事も続けて、子供も産む!」
独身時代、私は四方八方で鼻息荒く宣言していた。あの時、まるで白馬に乗った王子様を待つアホ女に対するかのように、大人たちは薄ら笑いすら浮かべて私を眺めていた。
「何でもかんでもそう思い通りにいくわけじゃないんだよ人生は。あんたにゃ3足の草鞋を履くのは無理。現実を見なさい」

数年後。状況に恵まれて、夢は叶った。なんだ!叶うじゃないか!

ところが、要領の悪い女が実際にこれらをバランスよく成立させていこうとすると、実に困難がつきまとう。
仕事に熱中すると、家のことが疎かになる。
子ども中心に考えると、職場での立場が苦しくなる。
そして、どちらに力をいれても、夫との時間はどんどん減るばかり。「子どもと十分に向き合いつつ、いつも手作りの料理を食卓に並べ、週に一度は夜更かしして夫とワイングラスを傾ける」なんて、夢のまた夢。
ぐったり疲れた体でやんちゃ盛りの子どもたちを怒鳴りつけ、食卓に並ぶのは手抜き料理ばかり。夜は寝かしつけたはずの子どもたちを置き去りにして、まだ化粧も落としていない自分が最初に意識喪失。夫の目を見るのは、朝に怒涛のような連絡報告をする時だけで、それ以外は、一週間ロクに口をきかない(きけない)ことなんてザラなのだ。

これでいいのか、私?

時にはつい自問自答してしまう。
が、答えはいつも一緒。

「これ以外の道は残されていない」

私にはどう頑張っても専業主婦業は無理だ。
たくさんの人と話す職場環境から一転、「今日話したのはクリーニング屋のおじさんとスーパーのレジ打ちの人だけ。あとは謎の言語を話す小さい息子」なんて生活は拷問以外の何ものでもなかった。
友人とのたった一回のお出かけを、一週間前からまるで命綱のように首を長くして待つ。常に夫の帰宅だけに心血を注ぐ。
「専業主婦なのに」掃除のできない自分の不甲斐無さを呪い、きちんと主婦業をこなしている友人達を見るにつけ、増幅していく劣等感。評価も報酬も休暇もない、責任だけが重たい育児と家事という大仕事をこなしているはずなのに、「夫の稼いだお金」を自分の事に使うたびに、心の奥底で罪悪感が蠢いた。
育児休暇の後半は、自分がいつ発狂するかと恐ろしくてたまらなかった。

例えば職場で嫌なことがある。頭の中はそればっかりで、グルグル煮詰まりながら真っ暗な気持ちで玄関のドアを開ける。
「おかあちゃーん!おかえりなしゃーい!!」
息子たちが飛び出して来て、彼らの太陽のような笑顔が熱湯のように毛細血管まで流れ込んでくる。
頭の中のどす黒い塊は一気に氷解し、思わずぎゅぅぅっと抱きしめる。キャッキャと喜ぶ彼らのぬくもりを頬に感じていると、次第にふつふつと漲ってくる活力。
「うおおおおおお!母ちゃん、明日もがんばるかんねー!」
ああ、この爽快感!生きる血潮!

「桃さん、そろそろお仕事の事も考えなければ……子どもがかわいそうだわ」
電話の向こうから絶えず繰り出されるおしゅーとめさんからのジャブを今日も「そうですねぇー」なんて言いながら、心の中でペロリと舌を出す嫁なのである。
こんな幸せな状況、辞めてたまるか!
先月から人気ワイン漫画『神の雫』がテレビドラマ化されました。
主役はワインが似合うキリリと端正な顔立ちのKAT-TUN亀梨君。このワインに関するドラマの影響で、今年はワインブームの再来か!?と私は睨んでいますが、いかがでしょう。

ワインを表現する際に「バランスの良いワイン」という言葉をよく耳にします。これを英語で「Balanced Wine」といいます。「Balanced~」は「バランスのよく取れた~」という意味。
「バランスの良いワイン」には、一例として「酸味と渋みと果実味がほど良いワイン」があるとか。
しかし、正直なところ「バランスの良いワイン」とは、具体的に何ぞや?といった感じです。

「今度料理にでも使おう」と台所にしまってある開栓から時間の経過した赤ワインを一口飲んでみてください。酸っぱすぎでかなりマズイはず。それがバランスの悪いワインです。
本来なら「Balanced Wine」の例として美味しいワインをご紹介するべきなのでしょうが、逆に「バランスの悪いワイン」を飲むことで「バランスの良さ」を理解していただけるでしょうか。

私達女性も、同じように「Balanced Woman」を目指そうではありませんか。
鋭い意見を言える頭の回転の良さと芯の強さが垣間見える辛口な女性には、相手を思いやる気持ちも必要。
渋い女性は、そこはかとなく影を見せている感じでミステリアスな印象ですが、たまにはちょっとおバカで天然な部分があった方が接しやすく魅力的。
フレッシュなもぎたての果実のような若さだけの女性もダメ。若作りしつつ、歳を重ねたからこその熟練された気遣いと知識を持ち合わせる!

もしバランスの悪い美味しくないワインを飲んでしまった時には思い出して下さい。
辛口で意地悪なあの人、根暗でとっつきにくい彼女、そして全く使い物にならない若さだけが取柄の新入社員のあの子を!そしてこんなワインのような女にはなるまいと、その味をしかと覚えておくのです。

美味しいBalanced Wineに出会ったら、芯の強さと優しさ、渋さと明るさ、程よく熟れて知的な自分を想像しそれを目指す。
ワインブーム再来を先駆けて、こんなワインの飲み方も悪くないのではないでしょうか。
毎週火曜日10時に『神の雫』でワインを学び、こう叫びましょう。

「亀梨くん、今夜は私をデキャンタージュ!」

私たちのアロマも香り高く開いていただこうではありませんか!

神の雫 (1) (モーニングKC (1422))/亜樹 直

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「修整はしないで、お願いだから。これでいいのよ」と、ソフィー・マルソーは言った。目尻に皺の残る自身のポートレートを見ての言葉である。

私たちは、当然のことながら歳をとる。歳をとるということは細胞の働きが悪くなるなどして見た目にも瑞々しさが損なわれていくことでもある。つまり、老化というものと向き合っていかなければならないのだ。
それはソフィーの言う目尻の皺であったり、ぽつぽつと見え始める白髪かもしれない。苦労を知らない指先がかさかさに見えるときかもしれない。
しかしときにそれは年齢を重ねた女性だけが持つ強靭さや包容力をイメージさせはしないだろうか。

ここ数年の傾向にある、『三十代女子力』という言葉にはひどく違和感を覚える。三十代を過ぎて『女子』と形容することの恥ずかしさを、ニッポン人はどこに置き忘れてしまったのだろうか。

現代ではたしかに、昔の同年代よりも随分と若返ったと言われている。とはいえ三十代ともなれば否応無しに二十代とのくっきりとした差を思い知らされることになるのが常だ。ちやほやされていたはずのポジションがいつの間にか誰かに奪われていることだろう。男性は以前のように気軽に誘ってはくれなくなる可能性もある。しかしそれが女の成長過程なのである。

いつまでも若い頃の栄華に引きずられたり、憧憬を抱いたままではアンバランスになるだけだろう。「キュートな」や「小悪魔的な」などというキーワードに気をとられて、服装やメイクが、言動や思想が、ちぐはぐになっている女性を見かけたことはないだろうか。そして、物悲しい気持ちを抱いてしまったことも。
同年代の女性が女性らしさを失っていくのを見ることこそ、悲しい気持ちになるものはない。私たちは社会では世代交代を余儀なくされ、自身の老いと向かいあうことで、『女』としてのバランスを保っていくのだ。

さて、そうは言ってもやはり誰にも相手にされず自己満足で完結しているような人間を『女』とは言わないだろう。出来ることなら異性からも認めてもらいたい気持ちもある。でも若い子には叶わない……。であるなら、いっそのこと目尻の皺を見て「おばさん」と揶揄するようなレベルの人間には、こちらから見切りをつけてしまってもいいのではないだろうか。世の中には数多の男がいるのだ。同じくして『男』としてのバランスを保っている異性とカンバセーションする方が楽しいに決まっているのだから。

歳を重ねるということは後ろ向きになりがちであるけれども、社会の、そして女のバランスを保っているのだと思えばそう悪いことではないもののように思える。そして年相応に見られながらも、「いい女だね」と囁かれるような“女バランス”を、常日頃から模索していきたいと思うのである。
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今月のお題は
『プレゼントにまつわる思い出』です。

2月14日はバレンタインデーですね。
旦那様へのチョコレートの用意はお済みですか?

でも、今年はバレンタインデーに男性から女性へチョコレートを贈る「逆チョコ」が流行だとか!?
いくつになってもプレゼントは嬉しいものです。

あの時、あの人からもらったプレゼント、あの人へあげたプレゼント。

あなたの『プレゼントにまつわる思い出』を教えてください!
どんどんコメントをお待ちしています!。

SoL -ソル-  ママ&ワイフを楽しむおんなたちのブログ。

「あそこにお父さんがいます」
ミンダさんが指さした先には鮮やかな黄緑色のキリギリスが一匹、濃い臙脂色のカーテンの天井近くに微動だにせず止まっている。死んでいるのではない証拠に、よく見ると触角が細かく動いている。

日本語学校の学生ミンダさんのお父さんは、半年間におよぶ闘病生活の末、4日ほど前に亡くなった。肺がんだった。フィリピンのお通夜は長い。地方や海外などにいる親戚一同が集まるまで、一週間、時にはそれ以上遺体を安置し続ける。

フィリピンのお通夜に初めて行った日本人は、まずそのにぎやかさに仰天するだろう。お通夜といっても日本のそれのように、何時から、と時間を決めてお経をあげたり、儀式をするわけではなく、弔問客はそれぞれ好きな時間にフラリと訪れる。
喪服は最終日に棺を墓に持って行く時だけで、それ以外の日は身内も客も普段着のまま。
会場もたいてい自宅だ。台所には弔問客のために食事やスナック、お酒などが大量に用意され、客も身内も一緒になって、食べたり、飲んだり、おしゃべりをしたり、陽気に過ごす。夜が更けるとトランプやビンゴなどのゲーム大会やカラオケ大会が始まり、笑い声も響く。それがフィリピン流のお通夜の風習なのだという。

親しい友人に恐る恐る尋ねてみたことがある。「亡くなった人の家族は悲しくないの……?」友人はこう答えた。「悲しいよ。でも人生の最後のイベントなんだから明るく楽しくしないと亡くなった人がかわいそうでしょ」
そして続けた。
どうしても泣きたくなったら、みんなから離れたところで一人でこっそり、少しだけ泣くのだ、と。

棺の前でゲーム?と眉をひそめる日本人もいるだろうが、フィリピンの人々にとってはお通夜に来たお客さんに楽しく過ごしてもらうことが亡くなった人への供養なのだ。そして亡くなった人はその様子を眺めて安心する。

私はその話を聞いた時に亡くなった人はてっきり天国から眺めているのだろう、と思った。
だが違った!
ミンダさんのお父さんのお通夜に呼ばれた時、新たな驚くべき事実が明らかになった。
フィリピンでは亡くなった人はお通夜の間、虫に姿を変える。それは比喩でも何でもなく、本当に虫になるのだ。少なくとも、フィリピン人はそう信じている。

一緒に行った学生たちは口々に「うちの祖父はコオロギになった」「私の母はちょうちょだった」と当り前のように語り、その虫たちはお通夜の間、棺からつかず離れず残った家族や客を見守り、棺が墓に運ばれると同時に姿を見せなくなるのだという。

私がいまいち信じきれずにいると、それまで黙って話しを聞いていたミンダさんが指をさした。
「私の父はあそこにいますよ」と……。

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◆ゲストライター:かおり

kaori_lechon

寒さが苦手でたいてい南の国に逃亡している軟弱な道産子。初海外はマダガスカル。
その後JICAボランティア関係でパラグアイ、コロンビアとベサメムーチョな南米暮らしが続き、現在は流れ流れてフィリピンの田舎で日本語を教える日々。最近ハマっているモノはハロハロ(フィリピン風具沢山カキ氷)とレチョン(子豚の丸焼き)。
「ワイフ」や「ママ」とはほど遠い人生裏街道をクラゲのように漂いつつも、まだ見ぬ夫と我が子のためにSoLで修行しておこう、と決意する。