「おかあさん、これ、おいしいね!」
口の周りに真っ白な生クリームをたくさんつけて、息子がケーキを頬張る。
キャッキャと声をあげながら、兄弟揃って綺麗に舗装された道を駆けていく後姿に向かって、「転ばないように気をつけなさい」と叫ぶ。
そんな時、不意に鼻の奥がツンとして、涙がボロボロ出てきてしまう事がある。
幸せの涙だ。
残念ながらこれは、ピュアな「幸せ100%絞りたて」の涙ではない。
彼らの姿に、どうしても、テレビで観たり本で読んだり、友人から聞き知った子ども達の姿がぼやけて重なり、その子ども達の親の心が私の中に憑依してしまうのだ。
傲慢になっているつもりはないし、平和で安逸な日々を「日常」として過ごせる有難みに対するレーダーを鈍感にしているわけではない。
けれど、贅沢すぎるほどの食べ物を、地雷のないこの道を……衣食住全て整っている環境を当然の事として甘受している息子たちを見るたびに、本当にこれでいいのだろうかと悩んでは、漠とした不安感から逃れられなくなってしまうのだ。
世界平和とか、人種差別撤廃とか、地球環境保護とか。
上を向いたらきりがないけれど、子どもを2人産んで毎日アクセクしながら炊事洗濯育児掃除にひたすら追われる平凡な一主婦にだって、貧困に苦しむ地域の子ども達が1人でもHappyになるべく、何かできることがないだろうかとウズウズと燻ぶるものがあるのだ。
満足に医療さえ受けられない国の子ども達のために、戦火のもとで苦しむ子ども達のために、何が自分に出来るだろうかと、洗濯物を干しながらフッとため息をついてしまう瞬間があるのだ。
そして、母親である自分がささやかな幸せに微笑むその瞬間、地球のどこかでは、自分の手ではどうにも防ぎようもない悲劇を嘆きながら涙を流している母親がいる。
そう思うといてもたってもいられない気分になってしまう。
想像力と行動力。
きっとこれがすべてなんだと思う。
なんでもいい。何かをしなければ。
今、この小さな島国にいる、たった1人の母ちゃんができることは、限りあるかもしれないけれど、我が子に注ぐ愛情のほんの一かけらが小さな小さな光になって、海を渡りますようにと祈りながら。
口の周りに真っ白な生クリームをたくさんつけて、息子がケーキを頬張る。
キャッキャと声をあげながら、兄弟揃って綺麗に舗装された道を駆けていく後姿に向かって、「転ばないように気をつけなさい」と叫ぶ。
そんな時、不意に鼻の奥がツンとして、涙がボロボロ出てきてしまう事がある。
幸せの涙だ。
残念ながらこれは、ピュアな「幸せ100%絞りたて」の涙ではない。
彼らの姿に、どうしても、テレビで観たり本で読んだり、友人から聞き知った子ども達の姿がぼやけて重なり、その子ども達の親の心が私の中に憑依してしまうのだ。
傲慢になっているつもりはないし、平和で安逸な日々を「日常」として過ごせる有難みに対するレーダーを鈍感にしているわけではない。
けれど、贅沢すぎるほどの食べ物を、地雷のないこの道を……衣食住全て整っている環境を当然の事として甘受している息子たちを見るたびに、本当にこれでいいのだろうかと悩んでは、漠とした不安感から逃れられなくなってしまうのだ。
世界平和とか、人種差別撤廃とか、地球環境保護とか。
上を向いたらきりがないけれど、子どもを2人産んで毎日アクセクしながら炊事洗濯育児掃除にひたすら追われる平凡な一主婦にだって、貧困に苦しむ地域の子ども達が1人でもHappyになるべく、何かできることがないだろうかとウズウズと燻ぶるものがあるのだ。
満足に医療さえ受けられない国の子ども達のために、戦火のもとで苦しむ子ども達のために、何が自分に出来るだろうかと、洗濯物を干しながらフッとため息をついてしまう瞬間があるのだ。
そして、母親である自分がささやかな幸せに微笑むその瞬間、地球のどこかでは、自分の手ではどうにも防ぎようもない悲劇を嘆きながら涙を流している母親がいる。
そう思うといてもたってもいられない気分になってしまう。
想像力と行動力。
きっとこれがすべてなんだと思う。
なんでもいい。何かをしなければ。
今、この小さな島国にいる、たった1人の母ちゃんができることは、限りあるかもしれないけれど、我が子に注ぐ愛情のほんの一かけらが小さな小さな光になって、海を渡りますようにと祈りながら。