「若い女の子が一人で行くような場所じゃないわよ。夜なんて暗いし何があるかわからないわ。やめなさい」
宿泊先の近所に住むおばさんに、思い切り止められた。とんでもないと、半ば青ざめ、半ば呆れた表情だった。

そんな事言われたって、行くと決めたのだ。泊まる所だって予約しちゃったし。
何故かわからないけれど、突然、強烈に呼ばれた(ような気がした)のだ。とにかく行かなければならないのだ。

鈍行列車に揺られて山の麓についた時には、日が沈み始めていた。人もまばらなケーブルカーに乗り、山頂に着いた頃、辺りはもう真っ暗だった。
そうでなくとも何も無い山の中。闇の濃さといったら半端じゃない。
そこからさらにバスに乗り込む。窓の外は一面の漆黒に塗りつぶされ、車内の電気だけが、闇夜を走る猫バスのようにぼうっと光っていた。

人影一つ見当たらないバス停で降り、足を踏み入れた宿坊は、どこからどう見ても立派な「お寺さん」。作務衣を身にまとったお坊さんが先導してくださる。
場所が場所なだけに、女一人旅なんて奇妙に思われないだろうかと内心ヒヤヒヤしていたけれど、部屋に通された途端、そんなことはぶっとんだ。
羽衣をまとった女性達が微笑みながら私を見下ろしていたのだ。
「天女の間」というその小部屋が、今夜私が眠る場所だった。

灯りを消して布団に身を横たえると、やがて、心穏やかで、安らかな気持ちに包まれていった。見知らぬ土地。深い山の中。何故か恐怖心は無く、自分でも不可解なほどの安心感だった。
真っ暗闇の中、壁一面を舞う天女達に見守られながら目を閉じた。

翌朝、深い眠りから目覚めた私は、ほんのり白み始めた戸外に出た。フラフラと散歩しながら山門辺りに来た時、ふと目を上げ、息を飲んだ。
延々と連なる杉、杉、杉。山を覆い尽くし、薄墨色に浮き上がる杉木立の周りには、白墨をさあっと薄くひいたような霧がけぶっていた。冷涼で、何か不思議な静けさに満ちた空気。
そこに流れる薄絹のような霧と数え切れない高野杉のシルエット。

その白と黒のコントラストは、この世のものとは思えない美しさだった。辺り一面を満たしている恐ろしく清らかなものが、毛穴の一つ一つに沁みこんでくるようだった。
霧がすべて晴れた瞬間、私は宿坊に踵を返し、延泊を申し込んだ。

御簾の向こうで次々とくべられていく護摩木。ぱぁっと飛び散る赤い火花。波のように、何度も重なっては高まり、そして静まったかと思えばまた高まる荘厳な読経の声。満ち満ちていく聖なる熱気。宿坊の方が案内して下さった「朝のお勤め」は度肝を抜く迫力だった。奥の院への参詣や、生まれて初めての写経、吸い込まれてしまいそうな曼荼羅や仏像、美しい壁画との出会い。

社会科の教科書の一行でしか出会ったことのなかった高野山という場所は、疲れきった私の心の中の澱を静かに拭い去る独特の美しい聖地だった。

密教どころか仏教についてなど、当時も今もさっぱりわからないけれど、未だに忘れられない場所と風景が次々と脳裏に甦る不思議な場所。深山に佇む聖なる霊場。なぜあの場所が空海に選ばれたのか、理由などわからずとも、足を一歩踏み入れた人はビシバシと肌で感じるはずだ。

ちなみに私が「呼ばれた」と感じた理由。実はそれを裏付けるような非常に不思議な「縁」をいくつか経験したのだけれど……。
その話はまたいつか。



Written by Momo