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「ちょっとごめんね」

小声で優実にささやいて、着信のボタンを押す。
電話の向こうの弘幸は珍しくひどく泥酔しているようだった。

学生時代から付き合っている弘幸とは、かれこれもう6年の関係になる。
今日は、親友の優実と、5年前に行われた彼女の結婚式以来会うことも、そしてそれをどんなに楽しみにしているかも伝えてあったはずなのに、何でこんな時に……と、訝しく思っていると。

弘幸の口から、信じられない言葉が飛び出してきた。

さっきまで冷たかった足先の感覚が消えた。

運河の水面は、相変わらず周囲のざわめきをすべて吸い取るかのような圧倒的で静かな美しさを保ったままだったけれど、沙弓は自分の頭が思考を停止して、魂が体から抜け出てしまったような感覚に陥った。

「うん。わかった。じゃあね」

ついでに、

「ふふふ」と笑って電話を切る。

「彼?」優実がニヤッと笑いながら聞く。
「うん。ごめんねぇ。今日優実に会うって言ってあったのに、電話してくるなんて」
「いえいえ。ご馳走様です。上手くいっているのね」
「なんだかねぇ」
肩をすくめて目を細め、幸せそうに笑ってみる。

「いいなぁ~。独身時代が華よね……」



結婚と同時に家庭に入った優実には、子どもはいない。

毎日帰りの遅い夫を待って、夕食を共にし、同じベッドに入り、そしてお弁当作り。午前中の家事をすませると少し昼寝をしたり、時々カルチャースクールに通ったり。

この国に数え切れないほどいるはずの、ごく一般的な主婦としての生活がどんなに退屈でつまらないものか優実は主張する。

優実は学生時代、とても賢く優秀な生徒だった。
沙弓はその利発さが羨ましくて妬ましくてたまらなかった。
優実が本州の有名な大学に合格した時も、北国の親元に帰って進学することを決めていた沙弓にとっては羨望の対象以外の何物でもなかった。


宿泊先のホテルに帰る優実を駅に送りながら、彼女の愚痴を聞いていた沙弓の口から、つい疑問が落ちる。

「じゃあ、どうして働かないの?退屈じゃなくなるわよ。それにもったいないわよ、優秀なのに。あんな良い大学まで出て……」

優実は美しい歯並びを見せながら、大きく手を振って笑って答えた。

「ダメよ、私なんて。向いてないもの」



……どうして彼女は「向いていない」などと言うのだろう。

学生時代、教師陣を虜にした優実。
会話をしていても聡明さがにじみ出る彼女には「向いていない」仕事なんて無いようにさえ思えるのに。

むしろ、どんな仕事でもすぐに自分のものにしてしまう要領の良さを彼女はもっているはずなのに。

沙弓が必死に言葉を飲み込んでいると、列車の切符を買いながら、優実は続けた。

「それよりも、独身は良いわよね。お金だって時間だって自由になるでしょ。羨ましいわ。恋も自由だし」





 ・・・つづく