日常生活の、どんな些細なことにも、必ず終止符がある。
小さな終止符の堆積がひとつの単位になり、それがまた積み重なって、より大きなまとまりになり、そして最後の終止符を打って、一日が終わる。
物語や音楽の、ひとつの章が終わるように。

その、整然と構築された予定調和的な世界から、完全にはじき出されたことがある。 
子どもが生まれたばかりのあの夏、私には、朝も昼も夜もなく、時間や空間という概念もなく、どろどろに溶けてまじりあった彼我の境界で、溺れる人間のように息継ぎをしながら生きていた。
どこからどこまでが過去で、どこからどこまでが現在で、そしていつになったら「明日」が来るのか、まったくわからなかった。

眠って起きたら、自動的に「明日」が手に入っていた日々、ほんの少し前の整頓された日常が、涙の出るほど恋しかった。
「秩序」や「規則」や、そして何よりも、「終止符」が懐かしかった。
どんな小さなことでもいい、「ここまでで終わり」という手応えがほしかった。
長い階段の途中に踊り場でひと息入れるように、せめて少しの間立ち止まる猶予がほしかった。

終止符のない、永遠に続く、時間と空間。
それは、息継ぎを許されない冗漫な文章を延々と読まされるような、果てのない平板な音楽を際限なく聴かされるような、身の置きどころのない苦痛をともなっていた。

それでもいつしか、子どもに「昼間」と「夜」の区別ができはじめ、夜は一度は眠りにつく(そして数時間ごとに起きる)というリズムができてくると、私の呼吸はややラクになった。

一度、終止符を打つ。そのことがもたらす秩序の美しさを、こんなに思い知ったことはなかった。
だから私は、今でも、忘れない。
一日が終わるごとに、当たり前のように今日が終わってゆくことへの感謝と、何の疑問もなく明日を迎えられることへの畏敬を。
明日、という日は来ないかもしれないのに、疑いなく信じることができる、平和な日常の得がたい完璧さ。

いつか、ほんとうの終わりが来るそのときまで、こうしてたゆまず、小さな小さな終止符を、ていねいに積み重ねて私たちは生きてゆく。