忌部とは





品部の地方忌部には、竹や盾を納める手置帆負命(たおきほおいのみこと)を祖神とする讃岐忌部(香川)、玉を貢納する櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖神とする出雲忌部(島根)、宮殿の木材を貢納する彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖神とする紀伊忌部(和歌山)、麻・木綿(ゆう)を納める天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖神とする阿波忌部(徳島)、鍛冶に携わった筑紫と伊勢忌部(福岡・三重)の祖神とされる天目一箇命(あめのかひとつかのみこと)などがある。阿波忌部は践祚大嘗祭に麁服(麻織物)を貢進する役目があり現在でも続いている。その他、越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)隠岐島(島根)、安房(千葉)などにも忌部氏が居た。

弥生後期から古墳前期(3~4世紀)にかけ、吉野川流域を中心にその勢力を展開し、海部(あまべ)と力を合わせ阿波地域を拓き、ヤマト王権成立に大きな影響を与え、日本各地に麻・榖(かぢ)を植え、農業・養蚕・織物・製紙・建築・漁業・衣食住の生活文化技術や産業技術・古墳築造技術(農業土木技術)などを伝播させた技術集団、かつ祭祀集団であったことが次第に判明してきた。その技術や思想を伝播させた背景は根拠の一つとした剣山系の風土や農文化にあったと推測される。

阿波忌部は、天日鷲命(天日鷲翔矢命)を祖神とし、麻や榖(楮)の殖産に長けていた。古代において阿波忌部が特異とした麻や榖は生活産業文化の基盤である。天日鷲命の初出は『日本書紀』の天石屋戸神話で、木綿(ゆう)作りをしたと記録される。同書の天孫降臨神話では、作木綿者とある。『古語拾遺』には、天日鷲命の孫が阿波に来て榖・麻を植え大嘗祭に木綿や麻布などを貢進し、郡の名を麻殖と名付けたとある。阿波忌部の一部は天富命に率いられ東国(関東)に入植し麻・榖を植えた。榖が実った地は結城郡(茨城県結城市)、麻が良く実った地は総国(上総・下総)、安房忌部の居る所は安房郡(安房国)となり、太玉命を祀る安房社を建てたとある。





天日鷲命の別名は、神武天皇の東征を助けた金鵄である



神武天皇を導いたのは忌部氏 

◇佐那河内中学校の校歌に歌われた忌部(阿波国の創生にまつわる歌詞)
三、忌部海部の手と手をつなぎ 南北文化の力をあつめた 血脈伝統この地に受けて 真理を探り
平和を築き 名誉あがる 佐那河内村中学校

阿波国の由来 - 吉野川中流域の日本最大の川中島(約500ha)は粟島(現在は善入寺島)と呼ばれたが、それは阿波忌部が粟を植えたところよく実ったので粟島と名付けられ、それが粟国(阿波国)の由来になったと伝わる。





鮎喰川西岸の気延山(矢野神山)の中腹には、式内大社「天石門別八倉比売神社」が祀られ、「杉尾さん」の呼び名で親しまれている。気延山一帯は、県内最大の古墳群が集中し、麓には、阿波国最大の縄文~弥生遺跡となる「矢野遺跡」が広がっている。神社名の『天石門別』とは「太玉命の子」を指し、当社は忌部氏が斎き祀った神社であった。『徳島県史』にも、「祭神の天石門別八倉比売の神は、古語拾遺には太玉命の子と伝え、阿波国は実に太玉命の子孫蔓延の土地であるから、その祖先を祀るものと考えられる。」とある


「太玉命」

フトダマは、日本神話に登場する。『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)の別名も存在する。忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。






旧麻植・美馬・名西郡などには、誰もが驚く急斜面に棚田や畑、家屋の基部に高石垣を構築する風景が随所に見られる。その特徴は競り出しと反りである。この石工の技術集団が畿内へ移住し、ヤマト王権の成立に重責を担ったのであろう。