体が喜ぶ食
というステキな言葉を聞くようになったのは、
いつごろのことでしょうか。
あたりまえのように耳に入り、
私も当たり前のように使っていました。以前は。
そんな言葉がまだなかった幼少期、
私はごく一般的な中流家庭の一般的な家庭料理で育ちました。
朝はパンとスクランブルエッグ、和食ならごはんとシャケとお味噌汁。
イケてる母だったので、
夜はミートソーススパゲティとかオムライスとか(←昭和の話ですからね!!!)
お料理上手な母の手料理で、すくすくと大きくなりました。
毎日の食はぜいたくではなかったけれど、
とても豊かで美味しくきらびやかなものでした。
食べることが大好きな私は毎晩大喜び。
でも、私の体は喜んでいなかったようで、
大学生のときに、えらくひどい花粉症にかかってから長年それはひきずりました。
大学1年生のとき、
一人で暮らしはじめて料理の本を見るようになったころ
「体が喜ぶ食」とか「体にやさしい食」という言葉を知るようになったのかなと記憶しています。
最初に出合った「体が喜ぶ」はオリーブオイルでした。
何にでもオリーブオイルをかけて、なんならコーヒーにも入れて・・・・・・
その他にも、いろいろな「体が喜ぶ」を取り入れました。
でも私の体は喜んでいなかったようです。
本当に喜んでいれば、不調はいずれ消えるでしょうから。
それから社会人になって、
一気に入ってくる情報、常識という情報や、ライフスタイルそして流行という情報が多くなり、
私の頭の中は「体が喜ぶ食」という情報が満タンになりました。
そして、それらを鵜呑みにし、合理的かどうかをたしかめずに頭から信じ、ひとつひとつ試してはなんとなく満足する日々が何年も続きました。
そして最終的には活力がない、
体はそこそこ大きくて丈夫に見えるのに
自力で立っているのもつらくて、
いつも体をクネクネさせるようになりました。
私の体は私が選んだ食で喜んでいたでしょうか。
どうも、そうではなさそうです。
はじめて自分の体が声を発しました。
肉を食え
それまで5年ほど菜食をしていて、
それが「体が喜ぶ」と思いこんでいたけれど、
ある日、その日は本能的にそれはちがうと体が言いました。
何年もの菜食生活を崩す心理的な壁はありましたが、その日はそんなこと言うてられへん!と判断。
後にも先にも本能的に判断したのはこのときだけです。
さて。
何が言いたいかというと。
私が「体が喜ぶ食」と思って選んできたものは、
それは体が喜んでいるのではなく、
なんとなく良さそうでスタイリッシュに思える健康情報に乗っていた、ということです。
喜んでいたのは、私の心だった、ということです。
今であれば冷静にそれらの情報一つ一つに対し「理にかなっているか」を判断することはできますが、どれも「理にかなっていない」ものでした。
ここに出てきたお料理名や調味料が悪いというわけでは決してありません。
「体が喜ぶ」ということばをイメージでとらえ、
その食が本質的に人の食として理にかなっているかを自分でひもとかずに信じこむという自分自身の姿勢が間違っていて、その結果健康に戻ることはなかった、という体験談です。
どれがいいとか、どれが悪いとかは言うつもりもなく、思ってもいません。
そういうことは名称だけで判断できるものではないし、体を保つ責任がある各々が判断するものだと思っているからです。
そもそも、体が喜ぶという言葉がイメージ的であり、
体とは何か?
どう喜ぶのか?
喜んだ結果どうなるのか?
というのもあいまいですからね。
その間違いに気づいたおかげで、
いまはけっこう丈夫になり、
申し分なく健康で、
花粉症のない元の状態、
平衡感覚も戻り、
活力も戻り、
毎日、目指すものに集中できています。
欲を言うなら・・・・・・
目がよくなるといいんだけどなぁ。
