私の母親は
とても買い物をするのが好きでした。
自分ために自分の欲しい物を買う、
というだけではなく
夫や娘たちのものから
自分が仲人をした人たちの子どもの洋服とか
近所のオバさんが入院したのお見舞いとか
いやいや、そんな大そうなことなどなくても
あんな時、こんな時、
ともかく〈ちょっとした何か〉にかこつけて
自分のもの、ヒトのものを
買うということが好きでした。
母はとても貧しい家で育ったために
自分の欲しい物を買ってもらうことなどありませんでした。
だから
自分で働いて稼いだお金を
自分で好きなように使うことができる
ということができるようになった時
幼少期の飢えや渇望を
満たしていったのではないかと思うのです。
幼少期の飢餓感は
大人になってから、ガツガツと
その飢えを満たすために全力疾走をはじめます。
今日、↓この記事を読んでね、
考えてしまうことがたくさんありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/472dbdd710f9c5538acdf455183c816579d9052b
〈子どもをほっぽらかして
オトコに会いに行き
何日も帰らずに
子どもを飢え死にさせた鬼母〉
である、この容疑者の口癖は
あそびたーい
幸せになりたーい
だったというくだりを読んで
あぁ、本当に飢えていたのは
この母親だったんだ
と感じたのです。
酷い目にあったヒトを悼む、擁護する
ということと
酷い目に合わせたヒトを批難する、罵倒する
ということとは別のことです。
亡くなってしまった子どもさんが
哀れでお気の毒で、やりきれないのは
もちろんですが
それとは別に
この容疑者の、壮絶な人生というものにも
心を寄せずにはいられません。
記事にあるように
虐待する親が、常に刃物を持ち
その刃物で切り刻まれるという
すざましい幼少期からの
彼女はサバイバーだったのでした。
亡くなったお子さんは
胃が空っぽだったそうで
もちろんそれ自体は残酷極まりないことですが
その体に外傷はなく
親からの暴力の形跡はなかったそうです。
私はね、このことを知ってね
この容疑者に
「えらかったね。
子育て大変だっただろうに
よく今まで子どもを殴らずに育ててきたね。
本当にえらかったね」
と言ってあげたいと思ったんです。
もし、そう言ってくれるバアさんが
近くにいたなら、
もっと言えば
「まぁ、たまにはハメを外したくもなるよね。
子どもはみててあげるから
遊びに行っておいで」
と言ってくれるバアさんがいたならば
母も子も救われただろうに、と
とてもとても残念に思ったのでした。
そうやって、子育てを
乗り越えてきたヒトは多いんじゃない?
自分ひとりだったら
子どもを育てるなんて
気が狂いそうなくらい
大変なことなんじゃないのかなぁ?
あそびたーい
幸せになりたーい
これが口癖になっていたのは
今この現実がそうではないから。
どこかにあるかもしれない
うっとりと、やさしい世界。
本人でなければ
その心情を窺い知ることなどできないけれど
子育てにおける〈紙一重〉を
垣間見たような気がしています。
貧しかったうちの母が
飢えを満たすように買い物をしたように
放置され、傷つけられて育った彼女は
自分を包んでくれるやさしい世界
に飢えていたのではないでしょうか?
自分を大事に扱ってくれる世界
そういう世界で遊び
幸せを感じたかったのではないでしょうか?
そしてもう一つ
この記事を読んで感じたことがあります。
彼女がサバイバーになった事件のことです。
彼女が生きたまま救い出されたのは
児相と警察が連携して
親戚中をパトカーがまわり、
自宅以外に子どもがいることはない
と判断して
自宅に警察が踏み込んでくれたおかげです。
これ、すごいことだと思います。
この事件のことは、
再検証して、
児相と警察の努力を評価しなおして
今後に役立てて欲しいと思います。
私は千葉での虐待事件の時
父親にチクった児相の職員を
批判しました。
心からバカヤロウだと思いました。
今でも、そう思ってる。
でもね、批難するのは簡単だけど
それをするだけの人間ってのはね、
実際に現場で動いてくれている人たちのことを
現場でがんばってくれているひとたちのことを
絶対に忘れたらいけないんだよね。
批難するだけって、ハズカシイことなんだと
知っているべきなんだよね。
そういうことも、考えました。
みんなで幸せになれる世界
そういう世界をめざしたいですね。
