3月15日。
それぞれが避難所である体育館から出発した。
「気をつけて!また会いましょう!」
そういって、みんなバラバラに出発した。
なんか、もう二度と会えないような気持ちになったのはなんだったんだろう。
そういえば、前の日の夜、私たち4家族の大人たちは、一台の車に集合した。
そして、その中の一人が、津波で流された酒屋さんから「もっていくといいよ」と言ってもらってきた、
砂まみれの缶ビールで皆で静かに乾杯をしたのを今も覚えている。
私たちは、埼玉の叔父さんのところに避難することを決めていた。
当時、高速道路が無料になっていたので、高速道路を利用して埼玉に向かった。
高速道路も地震で、ひび割れしたところや段差になったところ、
道路自体が波打ってしまったところがたくさんあった。
高速道路を走っていると、関西ナンバーや九州ナンバーの車など、他県ナンバーの特殊車両の車がたくさん走っていた。
自衛隊の戦車みたいなのとか、見たこともない車がたくさん反対車線を走っていた。
皆、福島に向かっているんだな、きっと。
「もう福島には戻れないんじゃないだろうか」
そう思わされれる光景だった。
パーキングにあるガソリンスタンドでは、2000円分のガソリンを入れることができたので、
何回にも分けてパーキングにより、行列に並んでガソリンをいれた。
お昼になって、パーキングの中の食堂で食べることにしたのだが、
ひさしぶりに食べたまともな食事で、温かいソバが身にしみた。
埼玉に向かうにつれ、なんだか不思議に感じた。
道路脇のファミレスでは、普通に皆が笑顔で食事をしている。
普通に皆が歩いている。
皆、地震なんてなかったかのように、普通にしているのが、不思議でたまらなかった。
もしかして、私たちがどこからかタイムスリップしてきたんじゃないかとさえ思えてきた。
異常なのは、あの人たちではなく、私たちなのだと。
そして埼玉の叔父さんの家についた。
その時、叔父さんの一言が悲しかったのを今でも覚えている。
「車、汚染されてないだろうな」
その夜は、久々に温かい布団の上に寝ることができ、次の朝、目覚めたのが、お昼近くの11時頃だった。
疲れていたのだろう。
ホっとしたのだろう。
起きて一番に目にしたのが、テレビの中の原発が爆発した様子だった。
なんとも恐ろしい光景だった。
そして、食い入るようにテレビを見続けた。
皆、無事なんだろうか…。
↑当時、放送していたテレビの様子。
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震災から5年目とう節目。
少しずつ思い出しながら、書いていこうと思った…。
来月の11日まで。
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