3月12日。
ゴルフ場につくと、たくさん避難している人たちがいた。
歩いていくと、「お母さんが~…」と泣きついてきた友達もいた。
お母さんがどこにも見つからないとのことで、パニクっていた。
「大丈夫だよ!どこかに避難してるよ!」と、励ましてみたものの…、自分ではどうすることもできないのが現実。
(このお母さんは、数日後、津波によって流された建物の下敷きになっていたのを発見された。)
また歩き出すと、仲良くさせていただいているご近所さん達がいた。なんだかホっとした。
ゴルフ場について、車の中で一夜を過ごしたとのことで、
トイレがなくて困ったこと、寒いのでずっと車の中でエアコンをつけていたので、ガソリンがなくなってしまったことなど、不便な一夜を過ごしたようだ。
だけど幸い、仲良くさせていただいたご近所さん達も、全員生き延びていてくれた。
そして、避難所リストから自分たちの好きな避難場所へ行けるということで、
ご近所さん達と話し合って、同じ避難所である高校の体育館に向かうことにした。
これが避難所生活のはじまりだった。
避難所の体育館についた時、柔道の畳みが何枚かあり、争奪戦で我が家も一枚手に入れた。
その畳みの上に、とりあえず荷物をおいて、また、あの津波によって流されてしまった二階の中の荷物を取りにでかけた。
二階の家の部分に到着したとき、明らかに何かが違うと感じた。
干してあった洗濯物がない。飛ばされるわけがない。
盗まれたのだ。
そして中に入ると、やはり雰囲気が違う。誰かが入った形跡がある。
火事場泥棒だ。
震災が遭った日の夜。
海岸沿いには、ホタルの灯りのようなものが無数に点在してたという。
それは、懐中電灯の灯り。
懐中電灯で震災が遭った場所を照らし、現金を探し歩いている灯り。
聞くところによると、よそ者が多く、片手にはものすごい数の現金をわしづかみしていた人もいたという。
そして翌朝には、1階だけ津波に流されて2階は無事だったという家に侵入し、
金目のものを根こそぎ持っていく、火事場泥棒がたくさんいた。
電化製品はもちろん、アクセサリー、ブランド品、なんとカードゲームのカードすら盗んでいった火事場泥棒もいた。
蔵のあった知り合いの家には、隣の人が侵入していて、「もうこれいらないでしょ?」と言って持ち去ったと言っていた。
いくら津波でドアが壊されてなくなっていても、そこには入っちゃだめでしょう。
そして、よそから来た火事場泥棒達には、ルールがあるらしく。
「ここには、もう金目のものがないよ」というマーキングをするようで、そのマーキング方法は、トイレにウ○コをすることらしい。
我が家の2階のトイレにもあった。
もう我が家には金目のものがないんだね。
あんたらになくても、私たちには大事なものが沢山あるんだよ!バーカって当時、心で叫んだ。
とりあえず必要とするものを家族全員で何回か車に持ち運んだ。
泥がついた服でも、洗えば着れるとゴミ袋に詰め込んだ。
あの体育館にこれから寝泊まりしなくてはならないであろうと布団一式を運び出した。
思い出の品も沢山あったが、必要最小限にして車に運び出した。
運び出すときに、何度も余震があって、何回も高い場所に走って逃げた。
怖い思いをしながらも、思い出の品を一つずつ目に焼きつけるように荷造りをした。
薄暗くなるまで作業を続け、避難所である体育館に戻った。
戻ったら…。
畳みが盗まれていた…。
畳み一つあっただけで、寝るのに背中とか痛くないかな~って思ったのに、と諦めた。
そして、ご近所さん4家族で話し合い、畳みが何枚かあったので、畳みのところにお年寄りと子供を寝かせようと決めた。
毛布が1人1枚と、板付きかまぼこと、カニカマを1袋もらった。
あるだけの布団はお年寄りと子供に振り分け、私たちは体育館の床に毛布を敷き、防寒着を着たり、重ね着を着たりして、一夜を過ごした。
あの体育館用の大きなストーブの「ゴーーーーーーーーーーー」という音が今でも耳から離れない。
3月13日。
翌朝の朝食は、板付きかまぼこと、カニカマ。
板がついたままのかまぼこをかじったのは始めてだった。
だけど、生きるためには目の前にあるもの、なんでもいいから食べなくてはと思った。
始めて知ったことがある。
かまぼこだけを食べると…、胸焼けがしてくる(笑)
そして、その日も一日中、2階のものを運び出した。
運び出している途中で、流された付近に知り合いの家があり、そこも2階から物を運びだしていて、
「なーんだ、隣に引越ししてきたのかー(笑)」
「そうなんですよ(笑)仲良くしてくださいねー(笑)」
なんて会話もしていた自分に驚いた。
荷物を運び出している最中、夫が死体らしきものを見つけた。
それは、真っ黒な物体にしか見れなかった。
だから、怖いっては思わなかった。
夫がすぐさま、消防団の人を呼んできて、自衛隊の人が運びだしていた。
まるで人形のような、真っ黒い物体。
そのときなんだか、自分の感情がおかしくなっているような気がした。
感情がなくなってしまった?
運び出す荷物も少なくなりつつあるので、この日は早めに切り上げた。
そして帰り際に、息子の担任の先生が、生徒の安否確認を道端でしていた。
なんと、息子は行方不明リストの中にいた。
あの時、遊びに行ったであろうのお友達の家にいなくて、息子は行方不明扱いされていた。生きてますよ、先生…。
さすがに夜ご飯もかまぼこではとは思い、帰り道、コンビニに買い物に寄った。
しかし、陳列棚には、ほぼ何にもなかった。
チョコレートが数個、アメが何袋かあるだけで、何にもなかった。
でも、そのチョコレートとアメを買い占め、また避難所の体育館に戻ったが、
子供たちには、車の中で食べてから体育館に来なさいと告げた。
なぜなら、我が家だけ別なものを食べているのは負い目を感じるに違いないと思ったからだ。
だが、その日の夜は、弟くんがお店が開けれないので、お店の残り物を差し入れをしてくれた。
美味しかった。
ご近所さんたちも、色んなところから差し入れがあったりで、差し入れの交換などもして、各々ちゃんとした食事ができた。
そして…、次の日の運命を迎える日がくることになった。
当時の私たちには、外の情報がまったく入ってこなく、なんにも知らなかった。
こんなことが、外で起きているなんて、想像もしていたなかった。
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2011年3月11日、福島第1原発は、地震の揺れを検知してすべて停止。
1~3号機の緊急炉心冷却装置(ECCS)稼働用の非常電源が故障。
政府は原子力災害対策特措法に基づき、原子力緊急事態を宣言。
3月12日、福島第1原発1号機で水素爆発。
3月14日、福島第1原発3号機で水素爆発。
3月15日、福島第1原発2号機で爆発音。4号機で爆発、火災発生(自然鎮火)した。
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↑避難生活の様子
↑原発爆発の様子
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震災から5年目とう節目。
少しずつ思い出しながら、書いていこうと思った…。
来月の11日まで。
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