いつもの朝を迎えた3月11日。
夫は、いつもの時間に出勤。
私は、いつものように身支度をする。
長女は、無事3月1日に高校を卒業し、4月1日から通うことになる専門学校に胸を膨らませていた。
そして、本来ならあるはずの近所のコンビニのアルバイトが急きょお休みとなり、部屋でまた寝ていた。
夕べ、少しだけ反抗期の娘と喧嘩をし、取り立ての免許で、納車したばかりの車を
日中、勝手に乗り回さないように、玄関にある車のキーをどこかに隠しておこうかと思ったが、
なんとなく置いたまま出勤した。
長男は、その日、中学校の卒業式で、先輩方を見送る日だった。
そして、それぞれ『我が家』の玄関からその日を出発した。
『我が家』は、その時築8年が過ぎた頃だった。
まだ真新しく、一年以上念入りに建てた家だった。
コンセプトは、「海が見えるプロバンス風の家」。
外壁がベージュで、レンガを使った洋風の2階建てだった。
レンガの壁に囲まれた白い玄関の扉を開けると、右手に下駄箱があり、
玄関の下のレンガは、夫がこだわった大きめなピンク色の大理石が敷き詰められていた。
靴を脱いで、家にあがると、左手には和室、右手にリビングとダイニングと台所があった。
オール電化だったので、蓄暖で部屋が一日中ほんのりと暖かかった。
リビングにあるテレビボードは、私がデザインして特注で作ってもらったものだった。
とてもお気に入りだった。
台所に立つと目の前には窓があり、朝日を見ながら朝食が作れた。
あの日も朝食を終え、食器は、食器洗浄機の中にしまい、スタートボタンを押した。
冷蔵庫は1ヶ月前に両開きのものに買い換えたばかりのものだった。
あの日は、豚の角煮を作ろうと思っていて、真新しい冷蔵庫にはブロック肉がたくさん入っていた。
テーブルは、ちょっと大きめな木の円卓だった。
一人一人色違いの座椅子に腰掛けて、食卓を囲んだり、テレビをみたり、団欒したりした。
テレビも丁度、冷蔵庫と一緒に買い換えたばかりだった。
奮発して、少し大きめな液晶テレビを買った。
私がデザインしたテレビボードの中に、少し奮発した大きなテレビを眺めるのが好きだった。
リビングから出ると、長い廊下があり、左手には6畳の洋室、右手に階段下収納があった。
階段下収納には、長女のお雛様と長男の五月人形がしまわれていた。
廊下の突き当たったところにも収納があって、夫のゴルフ用品とか掃除機とか入れていた。
廊下の突き当たった右手にはドアがあり、左手には脱衣所があった。
それは、海水浴から帰ってきたら、すぐにお風呂に行けるようにとしたものだった。
脱衣所は、夫のこだわりで、かなり大きな脱衣所だった。
壁紙も、銭湯風ということで、木目調のものだった。
お風呂場も、やはり夫のこだわりで大きめな湯舟と洗い場だった。
階段を上がって二階に行くと、右手にトイレ、突き当たりに私たち夫婦の洋室があり、
左手に歩いていくと息子の部屋があり、洋室があり、突き当たりに娘の部屋があった。
この真ん中にある洋室は、普段はスライド式の壁がしまわれていて、オープンスペースとなっていた。
そこから眺める海は格別だった。
ベランダも広めに作ったので、そこで近所の方とパーティーとかしていた。
玄関を出ると、左手に学校の美術の授業で娘の作った大きな木の椅子がおかれていた。
とっぷりと背もたれできる、その大きな椅子に腰掛けて、昼間は青い海と青い空を眺め、
夜は、ビールを片手に夜空を楽しんだ。
我が家の目の前は、海水浴場となっていて、朝はサーファーがたくさんいた。
いや、サーファーは一年中、暑い夏の日も寒い冬の日も年中いたな。
それほどサーファーが好む波があった海水浴場だった。
夏になると、たくさんの海水浴客がきた。
私たちも、近所の人たちと浜辺でバーベキューをして楽しんだ。
船の汽笛の音と、かもめの鳴き声と、さざ波の音で、毎朝、目が覚めた。
玄関の扉を開けると、潮の香りがした。
そんな朝を、3月11日も普通に迎えていた。
↑我が家があった通りの風景の一部をネット検索したら出てきました。
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震災から5年目とう節目。
少しずつ思い出しながら、書いていこうと思った…。
来月の11日まで。
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