おはようございます\(^o^)/
唐突で、すみません。
今日は 87歳の らっきょの母について書こうと思います。
私の生まれは東京ですが母の郷里は群馬県。
母は小さな歯科医を営む家に3兄妹の末っ子として生まれました。
医院手伝いの傍ら、琴、三味線、和裁を自宅で教えてた祖母が
「女も手に職を」と、母に日本音楽のスパルタ教育を施したのは自然の成り行きでした。
ほどなくヴァイオリンを弾く祖父の影響で楽器はピアノに代わりましたが。
地元の女学校卒業後、音楽大学入学の為 単身上京
寮生活を始めたのは母が17歳の時、まだ戦時中でした。
この時代、西洋音楽は「敵国の音楽」とみなされ
音大生は皆、肩身の狭い思いをしていたそうです。
入学直後から戦時色も濃くなり、勉学より学徒動員。
上級生男子は徴兵で戦地へ送り出され、
同級生も皆 軍用工場に働きに行かされた。
同級生の学友が徴兵の歳を迎える前に終戦となったのが幸いしたとのこと。
しかし、終戦と共に東京は深刻な食料難に。
寮生活とて同じで、祖母が時折運ぶ闇米や芋で空腹を満たしていたそうだ。
戦後の動乱期で、食べたい盛りに食べられず、勉強したくても音楽大学で充分に学べずに卒業の時を迎えたのです。
なので、ようやく戦争で途絶えていた国内外の演奏家のコンサートや
外人講師に学ぶチャンスが東京で得られると知った母は、
大学卒業後 郷里群馬で高校音楽教師をしていたのを辞め
「音楽の勉強をするには東京でないと…」と
東京の中学の音楽教師に転任したのだそう。
終戦間もなくの昭和20年代、文化の中心は東京一極集中だった。
若い母にとり田舎生活は退屈で刺激が少な過ぎたのだろう。
再び上京し外人教師にドイツリードを習い
教会のバイブルクラスで英語を学び始めたのもこの頃。
そのお陰で、進駐軍サロンやラジオで歌うチャンスも頂けた。
うん、母は女だてらに凄いファイターですよね!
本来なら人生で一番学べる時期に戦争があり
学び損ねた音楽を「もっと学び吸収したい!」
という一心で自ら行動したのですから。
そのまま郷里へ帰らず東京で出逢った父と結婚し、
兄が生まれるまで学校の音楽教師を続けていた。
その2年後、私が生まれる頃には2人の子育てしながら
自宅でピアノと声楽を教える様になっていた。
なので私が物心ついた頃から小学校に上がるまで
放課後 母は生徒さんのレッスンに、
その間 私は隣家の父方祖父母宅に預けられていた。
当時東京は子供も多く母のピアノ教室は流行っていた。
なので夕飯時になる迄、母はレッスン。
そのうち、私も外部の先生につきピアノを始めると、
母のレッスン中に、私は別室のピアノで練習し、
夕飯後 今度は私の練習のチェックを母がする
というのが日課になっていたんですね。
小学生になった私は、昼間友達が遊びに来ても
「練習があるからダメ」と遊びに行けず
夕食後は見たい人気TV番組も母のピアノ指導がある為見れず
母の厳しい指導に
「どうして私だけが…」という不満で一杯だった。
人と同じ事が出来ない不満で、反抗心が芽生えたのも この頃。
そんな時に必ず母が言っていた言葉は
「あなたは 他の人と違うのよ!
あなたにはピアノを練習するというコトがあるのだから!」
他に惑わされちゃいけないでしょう。。。でした。(ー ー;)
しかし、人と違うことをなぜするのか?
「え、でもなんで??ピアノを弾くコトで一体何が得られるのか?」
と不満タラタラで 母の言うコトから完全にブレていた。
結局まだピアノを「練習させられている」感でしかなかったんですね。
ピアノを弾くのも人のせい=他人事だった。
その頃の母は超スパルタでした!!
私のピアノレッスンや、兄の進学塾には必ず同伴し
「母親として出来得る限りのコトをしよう!」と
それは熱心でした。
モチロン、経済面でもサラリーマンの父に代わり
自らピアノを教えて生徒様から頂いたお金は、
私と兄の高い月謝に全て化けていました。
だから、私が学業の為にピアノの練習が出来なかったりすると
物凄く残念がった。
「日本の小学生も、外国の様に
『平日の午後は習い事だけの時間』となれば良いのに!」
いや、それは今もって、まだそうはなっていないって?!
この一言は、とても元学校教師の発言 とは思えない
ぶっ飛んだ考え方をしていました!!
そんな母の教育のお陰で、次第に人と違うコトをしてても当たり前と思うようになっていった。
そりゃあ、人と同じコトをしたい、という羨ましさは 完全に払拭されはしなかった けど。
でも、そのうちピアノ練習にかける 絶対的な時間が不足しだす頃には、
「義務教育では学校の出席日数は2/3あれば足りる。
だったら、1/3休めるじゃん!!」
って、平気で思うようになっていった。
そんな思いをした多くの人が全国から集まり
音楽高校へ入学したわけですから、確かに
ちょっと 常識からは かけ離れた人も多かったかも。
その中では らっきょなんてまだまだ序の口でした。
で、その頃に晴れて 母のピアノ練習チェックからも解放され、
音楽での自由を満喫した。
勉強しようものなら、いくらでも出来る状態だった。
学校の図書館へ行けば膨大な数の楽譜を見れたし
レコードも沢山聴けた。
ピアノも防音室で早朝から夜まで弾けた。
食べるモノにも何不自由しなかった。
そう、母の大学生活とは 全く逆の環境です。
しかし、課題のやらされ感の抜け切らないらっきょは、
高校生時代 自由を満喫し自分の好きな現代音楽に没頭。
側で見てて母は きっとイライラしてたかな?
「今こんなに課題練習出来るのに、なんで現代音楽?」と。
そもそも課題練習するのは 誰の為か??
「それは間違いなく自分。」
じゃあ「いつ課題を真剣にやるの?」ってね。
こなすべき課題をやらされ感でなく自分ゴトとして
1つ1つ 丁寧に確認しながらこなす。
その練習の面白さにハマるには まだあと数年時間を要した。
先生に指摘されても それをただ
「ふーーーん、そのうち。。」と横流ししてると
自分ゴトとして課題に取り組めないですよね?
でも、一旦らっきょを突き放した母は それについて何も言わなかった。
恐らく、母にとりちょっと冒険だったと思う。
らっきょ自身が「学ぼう!練習しよう!」
と気付くキッカケをコレで与えてくれてたわけなんですね!
そう思うと、それ以前のあの親子衝突の日々に
「素直になれず ごめんなさい…m(_ _)m」と
母に詫びたい。
そして、先生にも黙って好きな音楽に没頭させてくれて
「ありがとう」と母に感謝したい。
今ピアノ講師としては母に続きらっきょは2代目です。
途中、らっきょのブランクがあったので途切れてはいますが。
ブランク期間中に、有る事が当たり前のように思っていたモノを失い、自分にとって 失ったモノの大きさ、大切さに初めて気づき「再び取り戻そう!」として今のらっきょがあります
なので目に見えるモノで母から受け継いだモノはごく僅かです。
しかし、心の底に流れる
「ピアノを奏でたい」「皆に伝え拡げたい」一心は
間違いなく受け継いでいるんでしょうね。
そして、今度こそ『手放すまい』 そう固く誓っています!
最後までお読み頂き、どうもありがとうございました

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それでは~また。。
唐突で、すみません。
今日は 87歳の らっきょの母について書こうと思います。
私の生まれは東京ですが母の郷里は群馬県。
母は小さな歯科医を営む家に3兄妹の末っ子として生まれました。
医院手伝いの傍ら、琴、三味線、和裁を自宅で教えてた祖母が
「女も手に職を」と、母に日本音楽のスパルタ教育を施したのは自然の成り行きでした。
ほどなくヴァイオリンを弾く祖父の影響で楽器はピアノに代わりましたが。
地元の女学校卒業後、音楽大学入学の為 単身上京
寮生活を始めたのは母が17歳の時、まだ戦時中でした。
この時代、西洋音楽は「敵国の音楽」とみなされ
音大生は皆、肩身の狭い思いをしていたそうです。
入学直後から戦時色も濃くなり、勉学より学徒動員。
上級生男子は徴兵で戦地へ送り出され、
同級生も皆 軍用工場に働きに行かされた。
同級生の学友が徴兵の歳を迎える前に終戦となったのが幸いしたとのこと。
しかし、終戦と共に東京は深刻な食料難に。
寮生活とて同じで、祖母が時折運ぶ闇米や芋で空腹を満たしていたそうだ。
戦後の動乱期で、食べたい盛りに食べられず、勉強したくても音楽大学で充分に学べずに卒業の時を迎えたのです。
なので、ようやく戦争で途絶えていた国内外の演奏家のコンサートや
外人講師に学ぶチャンスが東京で得られると知った母は、
大学卒業後 郷里群馬で高校音楽教師をしていたのを辞め
「音楽の勉強をするには東京でないと…」と
東京の中学の音楽教師に転任したのだそう。
終戦間もなくの昭和20年代、文化の中心は東京一極集中だった。
若い母にとり田舎生活は退屈で刺激が少な過ぎたのだろう。
再び上京し外人教師にドイツリードを習い
教会のバイブルクラスで英語を学び始めたのもこの頃。
そのお陰で、進駐軍サロンやラジオで歌うチャンスも頂けた。
うん、母は女だてらに凄いファイターですよね!
本来なら人生で一番学べる時期に戦争があり
学び損ねた音楽を「もっと学び吸収したい!」
という一心で自ら行動したのですから。
そのまま郷里へ帰らず東京で出逢った父と結婚し、
兄が生まれるまで学校の音楽教師を続けていた。
その2年後、私が生まれる頃には2人の子育てしながら
自宅でピアノと声楽を教える様になっていた。
なので私が物心ついた頃から小学校に上がるまで
放課後 母は生徒さんのレッスンに、
その間 私は隣家の父方祖父母宅に預けられていた。
当時東京は子供も多く母のピアノ教室は流行っていた。
なので夕飯時になる迄、母はレッスン。
そのうち、私も外部の先生につきピアノを始めると、
母のレッスン中に、私は別室のピアノで練習し、
夕飯後 今度は私の練習のチェックを母がする
というのが日課になっていたんですね。
小学生になった私は、昼間友達が遊びに来ても
「練習があるからダメ」と遊びに行けず
夕食後は見たい人気TV番組も母のピアノ指導がある為見れず
母の厳しい指導に
「どうして私だけが…」という不満で一杯だった。
人と同じ事が出来ない不満で、反抗心が芽生えたのも この頃。
そんな時に必ず母が言っていた言葉は
「あなたは 他の人と違うのよ!
あなたにはピアノを練習するというコトがあるのだから!」
他に惑わされちゃいけないでしょう。。。でした。(ー ー;)
しかし、人と違うことをなぜするのか?
「え、でもなんで??ピアノを弾くコトで一体何が得られるのか?」
と不満タラタラで 母の言うコトから完全にブレていた。
結局まだピアノを「練習させられている」感でしかなかったんですね。
ピアノを弾くのも人のせい=他人事だった。
その頃の母は超スパルタでした!!
私のピアノレッスンや、兄の進学塾には必ず同伴し
「母親として出来得る限りのコトをしよう!」と
それは熱心でした。
モチロン、経済面でもサラリーマンの父に代わり
自らピアノを教えて生徒様から頂いたお金は、
私と兄の高い月謝に全て化けていました。
だから、私が学業の為にピアノの練習が出来なかったりすると
物凄く残念がった。
「日本の小学生も、外国の様に
『平日の午後は習い事だけの時間』となれば良いのに!」
いや、それは今もって、まだそうはなっていないって?!
この一言は、とても元学校教師の発言 とは思えない
ぶっ飛んだ考え方をしていました!!
そんな母の教育のお陰で、次第に人と違うコトをしてても当たり前と思うようになっていった。
そりゃあ、人と同じコトをしたい、という羨ましさは 完全に払拭されはしなかった けど。
でも、そのうちピアノ練習にかける 絶対的な時間が不足しだす頃には、
「義務教育では学校の出席日数は2/3あれば足りる。
だったら、1/3休めるじゃん!!」
って、平気で思うようになっていった。
そんな思いをした多くの人が全国から集まり
音楽高校へ入学したわけですから、確かに
ちょっと 常識からは かけ離れた人も多かったかも。
その中では らっきょなんてまだまだ序の口でした。
で、その頃に晴れて 母のピアノ練習チェックからも解放され、
音楽での自由を満喫した。
勉強しようものなら、いくらでも出来る状態だった。
学校の図書館へ行けば膨大な数の楽譜を見れたし
レコードも沢山聴けた。
ピアノも防音室で早朝から夜まで弾けた。
食べるモノにも何不自由しなかった。
そう、母の大学生活とは 全く逆の環境です。
しかし、課題のやらされ感の抜け切らないらっきょは、
高校生時代 自由を満喫し自分の好きな現代音楽に没頭。
側で見てて母は きっとイライラしてたかな?
「今こんなに課題練習出来るのに、なんで現代音楽?」と。
そもそも課題練習するのは 誰の為か??
「それは間違いなく自分。」
じゃあ「いつ課題を真剣にやるの?」ってね。
こなすべき課題をやらされ感でなく自分ゴトとして
1つ1つ 丁寧に確認しながらこなす。
その練習の面白さにハマるには まだあと数年時間を要した。
先生に指摘されても それをただ
「ふーーーん、そのうち。。」と横流ししてると
自分ゴトとして課題に取り組めないですよね?
でも、一旦らっきょを突き放した母は それについて何も言わなかった。
恐らく、母にとりちょっと冒険だったと思う。
らっきょ自身が「学ぼう!練習しよう!」
と気付くキッカケをコレで与えてくれてたわけなんですね!
そう思うと、それ以前のあの親子衝突の日々に
「素直になれず ごめんなさい…m(_ _)m」と
母に詫びたい。
そして、先生にも黙って好きな音楽に没頭させてくれて
「ありがとう」と母に感謝したい。
今ピアノ講師としては母に続きらっきょは2代目です。
途中、らっきょのブランクがあったので途切れてはいますが。
ブランク期間中に、有る事が当たり前のように思っていたモノを失い、自分にとって 失ったモノの大きさ、大切さに初めて気づき「再び取り戻そう!」として今のらっきょがあります
なので目に見えるモノで母から受け継いだモノはごく僅かです。
しかし、心の底に流れる
「ピアノを奏でたい」「皆に伝え拡げたい」一心は
間違いなく受け継いでいるんでしょうね。
そして、今度こそ『手放すまい』 そう固く誓っています!
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