美しい海は昔も今も変わらない。
天正遣欧使節の4人も帰国後はここで暮らしたらしい。
ちなみにここ河浦町は、天草の中でも一番西側。
何でこんな端っこに、こんな重要な施設があるんだろうって思うんだけど。。。
今の感覚だと、天草へのアクセスは熊本から入って来るから、ここは一番奥まった場所。
だけど、当時は何と言っても船がダントツのスピードある交通手段なんだね。
だから熊本側からではなく、こちらこそが天草の玄関口になる。
ポルトガルの地図には、豊前とか肥後とかの地名と並んで、河浦町の「久玉(クタマ)」も書いてあるし、当時はかなり栄えてたらしい。
今では考えられないくらい陸の孤島で過疎の町。
平戸に行った時も思ったけど、とにかく栄えていたのはどこも海に面した所で、今とは真逆なんだなー。
これは富岡城。
天草はお上からすると、かなり面倒な国だったよう。
遠いし、平地が少なくお米は取れないし、キリシタンは多いし、なかなかに難しい土地なので、皆んなあんまり欲しくなかったみたい。
キリシタンが多いのも一揆が起きたのも、そもそもこのお米が取れなくて生活が苦しいことに加えて、年貢を必要以上に取り立てて農民を苦しめたことが原因。
ところで、島原の乱って有名だけど、天草では「天草・島原の乱」というらしい。
確かに、首謀者は『天草』四郎なのに、最後に籠城した長崎・島原の印象が強いな。
初耳だったのは、この富岡城を攻めたのが最初だってこと。攻めに攻めても堕ちないもんだから、1万人を引き連れて海を渡って島原の原城へ。
この地に立ってみるとよく分かるけど、とにかく島原は目の前。今こそ長崎県と熊本県だけど、言葉や食もほとんど同じ文化圏だな。
悲惨な島原の乱の後、この地を治めた鈴木重成代官。
人口減には移住者を募り、公共事業を増やして働き口を増やし、極め付けは討ち首覚悟で年貢を半減にと幕府に直訴。
今でもあちこちに「鈴木さま」という神社があることからも、どれだけ信頼を得ていたかが分かる。
お代官さまの中にも、こんな徳の高い人もいたんだなーと感動した。
天草・島原の乱123日を日にちを追って詳しく解説があるのがムチャ分かりやすい。
キリシタン側と幕府側のそれぞれの動きを併記してあるのも上手い。
ラチがあかない戦いに、幕府側が伊賀の忍者をスパイとして送り込むくだり。
せっかく送り込んだものの、方言が強すぎて全く聞き取れなかったってとこ。
いやー、なかなかに人間くさくてリアル感が増しますな。
帰りは一度乗って見たかった天草エアライン。
車なら4時間近くかかるから超ラクチン♪
ちなみにこの航空会社はこの一便しか持ってない零細企業。
手作り機内誌(?)が泣かせるねー。









