こんにちは
ひまわりまみーです
このブログへおいでくださってありがとうございます。
どうぞよろしくお願いします
なんで長男のことが可愛いと思えないんだろうって
考えていくうち
子どもの頃の自分をみてるようで
なんか腹がたっていたんだけど
そのときは、それがなぜなのか、
までは考えがおよばなかった。
「だってさ、私の子どものときにそっくりで
腹がたつんよね」
後妻さんにそう説明した。
でも後妻さんも だまったままだった。
たぶんなぜなのか、わからなかったんだと思う。
ただ
長男のことを愛せますようにって
祈りなさい、と
助言してくれた。
後になってきいたことだが
後妻さんも長男のことを心配して
祈ってくれていた。
私はその助言に素直に従い
朝夕、仏様に手をあわせ祈った。
祈っている間というのは
いろいろなことを考える、思考するというか
自分と対話するとでもいおうか
そんな時間になる。
長男のことを愛せますようにと祈れ
といわれたが
私は長男のことを愛してないのか?
そう頭にふっと浮かんだ。
どんなに腹が立っても
どんなに頭にくると思っても
ほんとうに
私は長男のことを愛していないのか?
もし長男がいなくなってしまったら
何かで突然死んでしまったら
私はなんともないのか?
ああ、せいせいしたとほんとうに思うのか?
いや、私は悲しい。
自分の子どもだもの、愛はあるんだ。
愛してないなんてことないよ
そう思った。
じゃあいったい何が原因で
あんなに長男に対してイライラしたりするんだろうかって
ことは
このときはまだ気がつかなかった。
他にも
一年の夏休みは
学童で上級生に意地悪をされて暴力をふるわれて
学童に行きたくないといいだしたり
二年生の冬ころは
アパートの通路で電話帳に火をつけて燃やしてみたり
友達関係がしっくりいかないみたいだったり
なんか私がかなり心痛しなくちゃいけないことが
いろいろあった。
ほんと、今だからわかるけど
こういうのって
親からちゃんと受け入れてもらって育ってたら
つまり
「自己肯定感」というものが
ちゃんと長男の中にあれば
起こらなかった問題だと思うんだよね。
でね、
子どものことを、
子どもの存在そのものを認めて、受け入れるっていうか
そういうことって
親自身が
自分を認めて受け入れてないと
できないんだよねー、
とそう思う。
まあ、これはほんと ここ二、三年になって
いろいろな子育てに関する勉強したり
本を読んだり、心のことを学んだりして
ようやく わかるようになったのだけど。
長男が中学二年のとき
とうとう不登校になったから
また
長男と向き合わなくてはならなくなった。
長男と向き合うってことは
自分と向き合うことだったんだなって
思う。
たとえば
長男ののんびりとした性格は
私が子どものころは
いつもボーッとしてるとか
ボサッとしてるとか
テレッとしてるとか
役立たずみたいな言われかたばかりされていたから
嫌だった。
長男のちょっと引っ込み思案なところは
消極的で
どこにいるかわからない
笑わないし
可愛げがないとか
おとなしくて暗いのをとがめられてるような
そんな言い方ばかりされていたから
嫌だった。
そんな自分を否定されて
私の親から言われて嫌だった言葉が
長男をみていると よみがえってきて
長男には
ハキハキと快活で積極的であってほしい、
みんなに慕われて人気者であってくれたらいいのに
そうでないと
また私のように悲しい思いや
みじめな思いや
辛い思いを
しなきゃいけないよ、
そんなの嫌だし心配だよって。
自分が子どものころに
そんな自分だったら親から可愛がられるのに
そんな自分だったら親が喜んでくれるだろうにって。
そんな自分の心配や期待や願望を
子どもに押し付けて
こどもが自分の期待や願望どおりにならないからって
それで腹を立てるんだ私
って
やっとそれに気がついたんだよね。
それに気がつくまでに
どんだけ
長男と取っ組みあって
むなぐらつかんで喧嘩したろうか。
どんだけ
夜中に泣いて悩んで
祈ったろうか。
必死だった。
学校ちゃんといかんと、
ちゃんと勉強しとかんと
あんたが苦労するんやけ、
お母さんみたいに苦労してほしくないやんって
わからんとか!
このばかたれが!!
って必死なだけだったんだけどね。
④へ続く
今回も読んでくださってありがとうございました



ひまわりまみーです

このブログへおいでくださってありがとうございます。
どうぞよろしくお願いします

☆☆.。.:*・゚*:.。.☆☆.。.:*・゚*:.。.☆☆.。.:*・゚*:.。.☆
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子どもの頃の自分をみてるようで
なんか腹がたっていたんだけど
そのときは、それがなぜなのか、
までは考えがおよばなかった。
「だってさ、私の子どものときにそっくりで
腹がたつんよね」
後妻さんにそう説明した。
でも後妻さんも だまったままだった。
たぶんなぜなのか、わからなかったんだと思う。
ただ
長男のことを愛せますようにって
祈りなさい、と
助言してくれた。
後になってきいたことだが
後妻さんも長男のことを心配して
祈ってくれていた。
私はその助言に素直に従い
朝夕、仏様に手をあわせ祈った。
祈っている間というのは
いろいろなことを考える、思考するというか
自分と対話するとでもいおうか
そんな時間になる。
長男のことを愛せますようにと祈れ
といわれたが
私は長男のことを愛してないのか?
そう頭にふっと浮かんだ。
どんなに腹が立っても
どんなに頭にくると思っても
ほんとうに
私は長男のことを愛していないのか?
もし長男がいなくなってしまったら
何かで突然死んでしまったら
私はなんともないのか?
ああ、せいせいしたとほんとうに思うのか?
いや、私は悲しい。
自分の子どもだもの、愛はあるんだ。
愛してないなんてことないよ
そう思った。
じゃあいったい何が原因で
あんなに長男に対してイライラしたりするんだろうかって
ことは
このときはまだ気がつかなかった。
他にも
一年の夏休みは
学童で上級生に意地悪をされて暴力をふるわれて
学童に行きたくないといいだしたり
二年生の冬ころは
アパートの通路で電話帳に火をつけて燃やしてみたり
友達関係がしっくりいかないみたいだったり
なんか私がかなり心痛しなくちゃいけないことが
いろいろあった。
ほんと、今だからわかるけど
こういうのって
親からちゃんと受け入れてもらって育ってたら
つまり
「自己肯定感」というものが
ちゃんと長男の中にあれば
起こらなかった問題だと思うんだよね。
でね、
子どものことを、
子どもの存在そのものを認めて、受け入れるっていうか
そういうことって
親自身が
自分を認めて受け入れてないと
できないんだよねー、
とそう思う。
まあ、これはほんと ここ二、三年になって
いろいろな子育てに関する勉強したり
本を読んだり、心のことを学んだりして
ようやく わかるようになったのだけど。
長男が中学二年のとき
とうとう不登校になったから
また
長男と向き合わなくてはならなくなった。
長男と向き合うってことは
自分と向き合うことだったんだなって
思う。
たとえば
長男ののんびりとした性格は
私が子どものころは
いつもボーッとしてるとか
ボサッとしてるとか
テレッとしてるとか
役立たずみたいな言われかたばかりされていたから
嫌だった。
長男のちょっと引っ込み思案なところは
消極的で
どこにいるかわからない
笑わないし
可愛げがないとか
おとなしくて暗いのをとがめられてるような
そんな言い方ばかりされていたから
嫌だった。
そんな自分を否定されて
私の親から言われて嫌だった言葉が
長男をみていると よみがえってきて
長男には
ハキハキと快活で積極的であってほしい、
みんなに慕われて人気者であってくれたらいいのに
そうでないと
また私のように悲しい思いや
みじめな思いや
辛い思いを
しなきゃいけないよ、
そんなの嫌だし心配だよって。
自分が子どものころに
そんな自分だったら親から可愛がられるのに
そんな自分だったら親が喜んでくれるだろうにって。
そんな自分の心配や期待や願望を
子どもに押し付けて
こどもが自分の期待や願望どおりにならないからって
それで腹を立てるんだ私
って
やっとそれに気がついたんだよね。
それに気がつくまでに
どんだけ
長男と取っ組みあって
むなぐらつかんで喧嘩したろうか。
どんだけ
夜中に泣いて悩んで
祈ったろうか。
必死だった。
学校ちゃんといかんと、
ちゃんと勉強しとかんと
あんたが苦労するんやけ、
お母さんみたいに苦労してほしくないやんって
わからんとか!
このばかたれが!!
って必死なだけだったんだけどね。
④へ続く
今回も読んでくださってありがとうございました



