人は幸せになりたい、平安になりたいと言う。
自分はこれについて、
嘘をついていないつもりの嘘つきだったと思う。
かっこいいスピリチュアリティとしての理想の存在を目標にして、それを真似ようとしてきたからだ。
でも、自分の欲求を掘り下げ続けて、
叶うというのを体験していて思うことは、
「これが叶っていないのに
自由なんて感じられるわけなかった」
「自由じゃないのに平安を感じるわけがなかった」
ちょっとだけよく考えてみれば
これはとても当たり前の理屈だと思う。
欲求が叶っていないということは
不満ということ。
叶っていないのにそのままでいるというのは
何かを知らぬ間に我慢しているということ。
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それは、
顔がかゆいのに掻かないのと同じことだ。
「顔がかゆく無くなってほしい」
という欲求を叶えないのは
どれだけ苦痛だろう?
そんな些細なことを叶えないことの苦痛が
どれだけ大きいかを考えたら、
想像しやすいだろうと思う。
顔がかゆくてたまらないのに、
平安を感じるか?
自由を感じるか?
守られていると感じるか?
満たされていると感じるか?
私が欲求について書きたいことは
つまり勘違いしてほしくないことは、
顔がかゆいとき、”掻く“ことを
解決策にはしたくないということ。
ちゃんとスピリチュアリティを使って、
「かゆい」から「かゆくない」へと
欲求を叶えようよ、ということ。
「“掻く”というプロセスが無い」
という可能性をもって、
まったく別のスピリチュアリティな方法で
つまり魔法のような方法で
叶えようよ ということ。
(スピリチュアリティを使ってという言い方は、とても変な言い方。一般的ではない方法というニュアンスを表したかった)
そうすれば
「かゆく無くなってほしいという欲求を
掻かずに叶えること自体が
実は大きなギフトだった」
と気づけるから。
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こんなことの中にも、
実は欲求は素晴らしいということが見える。
顔のかゆみについて、
表面の欲求は「掻きたい」だ。
でもその一歩奥の欲求へと掘り下げれば
「かゆくなくなりたい」だ。
そして また一歩掘り下げれば
「肉体が快適でありたい」だ。
そしてまた数歩掘り下げれば
「何ものにも邪魔されることなく
ずっと不快がないままでいたい。
私にも、家族にも、大事な人にも、
世界中の人々にも、
不快さがなくなったらいいのに。
私は絶対的な快適が好きだ!
ああ私は
私にも、みんなにも、常々そう願ってる!」
最後に書いた一歩は
数段飛ばして書いてしまったけれど、
これらは『平安』の要素を表していないか?
なんて素敵なことを願っていることか。
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つづく・・・

