「何もする必要がない」
というその手前にあったのは
やらなければならないという思いを
手放すこと。
「何もしないでいい」という安心に行くまで
ざわざわしている思いを通り抜けて
なんとしてでも看過して
もっと深く進むこと。
それを一生懸命にやること。
やることが何もないと
「今やるべきことは何だ?」
「何をしよう?」
と考え始めます。
赦しが目的であるときも
まったく静かな環境になれば
「何か見るべきものがあるはずだ」
自分の中をあわてて探し始めます。
でもそれを通り越して見ようと思った時にあるのは、周囲の人がもう完璧なんだというものです。
それはすでに完璧なものに囲まれているんじゃないか?
という感覚でもありました。
一生懸命に
心の中で何もしようとしないようにすることによって、何もする必要がないと分かる。
見足りないものはもうない
考え足りないものもない
これが与えるということ。
たとえそうとは信じられなくても
「ないはず」だけがちゃんと導く。
それは
すでに愛の存在である人々に囲まれているという認識であり、自分がそういう認識であることがすでに与えている状態。
そして同時に得ている状態でもある。
何もしないくせに
その状態を喜んでいていいし
そうしていることが本当は当たり前。
ただただこの状態でいることができた時
つまり何もしないことができた時がそれだ。
