「私はもうここで、何を喜んだらいいかわかりません。この世界のこと、何に楽しんで、何をどう感じたらいいか、具体的に教えてください。私の代わりに感じてみせてください。」


もうどうにも分からなくて
わんこの散歩中に祈った。

こんな祈り方を思いついたのは初めてだった。



この世界は地獄だからと諦めるのに度が過ぎて、物質に喜んじゃいけないにまで発展し、
いささかいくらなんでもおかしいレベルだと感じていたけど、もうお手上げだったのだ。




だから無理すぎて

ジーザス、
私の心に何か入れて欲しい
体も全部動かしてほしいし
代わりに反応もしてほしい
全部わからない

だからお手本を実際にやってみせてほしい

が祈りだったのだと思う。




そして待とうとし始めた。

と同時に
ぶわっとたくさん感じはじめた。




道端の花に目が行っては神がいて、空の鳥が鳴くのが耳に入ってはまた神がいて、風がふけば風が耳を触り、また風の音も耳に入ってきて神を感じ、、、

という風に
歩く先々にあるものなんにでも
目と耳と感触をふんだんにつかって
勝手に注意を向けさせた。

そしてそれらには全部神が入っているように感じるほどの何かがあった。

入っているという言い方はちょっと違うのだけれど、でもそんな感じ。

だから散歩中はずっと泣きっぱなしだ。

いるんだという安心
救われた、ほっとする
んー
どれも違うな。

とにかく嬉しい泣き方。




それに
イエスはいつもこんな風に感じているんだ
とわかったような気持ちもあり
一緒にこれを感じているとも思った。




わんこのアローくんも
実は今日おかしかった。

いつもは今日のようには散歩にすぐ出かけてくれない。

散歩が大嫌いだから
行こう!と誘ってもいつも隠れてしまう。

でも今日は最初から自分でスタスタと出かけ出したから、「まったく珍しいな」と思いながら出かけた。

もちろん散歩の道中
わんこの後ろ姿を見ては
神が入っているし
私のちょっと前を歩きながら
ついておいでと言っているようにしか見えなかった。



ありがたいことに誰にも出会わずに
アロくんありがとうって言いながら
思う存分泣きながら散歩していることができた。




私は自責の思いが強いよう。

奇跡講座をやっている人達によくそう言われる。

奇跡講座のやり方も
100かゼロかになってしまうから
ちょっとでも落ち度を見つけたら
自分を攻撃する。

洗濯物を干すのだって
自分を咎める始末。
 



そうやって聖霊にしか判断できないようなことまで気にかけて、「自我に警戒する」の度が過ぎていると思いつつも、ずっとどうしていいかわからなかった。

奇跡講座への取り組み自体に自我が入り込んでいると感じているし、奇跡講座と自我がコラボしてるなと思いつつも。



もちろんもう何ヶ月も
ずっと助けを求め、色々悪戦苦闘したけど
その出口なしだった。





でも今日はとうとう
わからない限界になれたんかな。

任せるとは
どう思ったらいいかを任せるということ。

どんなエゴの思いが湧き上がってくるかも
どう反応したらいいかも
任せるということ。

待つだけでいいこと。

ただ見るとはこういうことなんだ。




エゴの思いをずいぶん自分で探し
どう反応したらいいかも頭で考えてたけれど
それも私はやらないんだ。

警戒の仕方を間違ってた🙏