日本には固有の宗教として「神道」があります。
宗教というのは同時に文化です。イスラム教徒、キリスト教徒、それぞれの宗教としての教義や戒律があり、それに付随して生活と文化が育まれますね。
ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、それぞれの教義、戒律、歴史と文化があります。
宗教とは違うけど、中国では古来より「儒教」という教えがあり、これも「教義」に近い、厳しい道徳の基準があります。
この辺の感覚、日本人のほとんどが、理解してないどころか「知らない」と思います。
宗教と文化、戒律と教義
もう一度言いますが、宗教=文化・歴史。つまり、宗教は生活様式はもちろん、考え方の基盤になっているのです。
しかし、日本の「神道」には戒律や教義はありません。そもそも教祖もいませんので、それを「宗教」と呼んでいいのか?という議論すらあるそうです。
どうして、神道には戒律や教義がないのか?
これは同時に、日本の歴史や文化に、厳しい戒律とか、「〇〇をしてはダメ」「〇〇をしないといけない」という、教義が非常に少ないということを意味します。
もちろん、例えば江戸時代は朱子学(儒教)が武家社会や、教養ある人たちの間で広がりました。
ただ、それ以前に仏教や道教の影響も受けていますが、日本らしい形で、仏教倫理のようなものもあったでしょうけど、日本の文化と同化して、なんとなく曖昧です。
ちなみに出家したお坊さんや、近代でもキリスト教の神父さんや牧師さんにはたくさんの教義があります。あくまでも民衆レベルにおいては、国家の法律は適用されますが、宗教や文化的な戒律や教義はありません。
どうして、神道には戒律や教義がないのか?
それはとっても単純な理由だと思うのです。
その必要がなかったから!
ではないでしょうか?
例えば、あらゆる宗教で
「モノを盗んではいけない」
「人を殺してはいけない」
「姦淫してはならない」
とあります。
そして、それを破ると、「罰」が下るというシステムがあります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「ヤハウェ」「天の父」「創造主」「アラー」とか、色んな言い方がありますが、基本的に「同じ神」を、別の名称で扱ってます。
そこでは、生前に戒律を破ったり、悪事を犯すと、天国に行けないとか、復活できない、地獄に落ちる、というなんらかのペナルティ、つまり“罰”を受けるとされ、人々は地獄行きを免れ、天国へ復活できるように、教義を守ります。
ヒンズーや仏教では、来世が奴隷になるとか、酷い世界に輪廻するとか、やはり死後の世界の罰のようなものがあるとされていますね。
中国では、儒教とセットで「道教」が大衆的な価値観を生み出しているらしく、そこ
では「地獄」や「閻魔様」という概念があり、これは日本にも輸入されましたね。
ここで「どうして日本には細かい戒律は必要なかったのか?」ですが、例えば「人を
殺してはいけない」とか「人のものを盗んではいけない」は、地獄へ行くのが怖いか
らやらないのではなく、考えるまでもなく、
「よくないこと」
「わるいこと」
「やってはいけないこと」
として、やりたがらないのです。
全文はnoteにて
