私も結構極端な人間だ。
キレキレの正解を導き出して、ウッシッシとなりたい自己顕示欲。
誰よりも自分が正しく、正解で、的を得ていたい欲。

悲しみ、空しさが生まれた時、怒りや批判へと変化する。
「自分が正しいのだ!」と大声で叫びたい。
心の中では「わかってほしい!」と叫んでいる。
認めてもらいたい。相手を納得させたい。
つまりはコントロールが入る。





でも、そんなことやったって、一行に気分はよくならない。
例え相手が「降参です。あなたが正しい。参りました。」と言ったとしても、
表層意識ではご満悦かもしれないが、
深層意識での悲しみ、空しさは何も変わらない。





まったくもって、これこそ的が外れているということ!

本当に向き合うべきことは、「自己尊厳」かなと思う。

「自己尊厳」は、なにも自分自身が完璧だから起こるものではない。
むしろ、完璧でないにしても(完璧なんてないし)
自分は自分の中にキッチリ存在しようという決意なのだと思う。

言い換えれば「自己愛」とも言えると思う。

愛するに値する自分だからそうするのではない。
たとえどんな自分であっても愛するとう決意なのだと思う。


「自己信頼」とも言えるが、それは信頼しえる自分がいるという前提で
成り立つというものではなく、たとえどんな自分であっても、なくても、
自分だけは自分を見捨てずに寄り添い続けるという決意なのだと思う。


自分でいる、自分であるという決意。
何をするにも、これが徹底的に根底にあること。
(人の声、何かの声を聞くことでなく、自分の声を聞き続けること)


自分勝手、我がまま、自分本位、自分中心、自分さえよければいい。
一見、このように理解されてしまいがちだけど、
その行為の出発点がどこにあるかで、まるで性質、本質が違ってしまう。


私の中で、「自己信頼」とはずっと課題だったんだけど、
どうゆうことかやっとわかって来たよ。

ずっと、信頼しえる自分なんていないと思ってた。
信頼しえる・・・能力のある、優秀な自分という意味で。

でも、そうじゃない。

決意の問題
だったんだ!!





決意すればいい、
決意していい。
それが私に与えられた自由なのだ。



自分の人生は自分でクリエイトしていいのだし、できるのだ。
それは成功する、しない。
理想、夢を叶える、叶えない。の平面的、2次元的な話ではなく。

その世界を選んでよいのだという許可が
自分の手の内にあり、それこそが自由なのだ。



それこそが生きるエクスタシーなのだ!