実は、私、誕生日を祝う、ということに小学生の頃から違和感があった。

なんで、自分の誕生日を祝ったり、他人の誕生日を祝ったりしなくてはいけないのかと。

大人になった今は、便乗して誕生日を楽しもう、人間として他人様におめでとうの一つも言っておくべきと思ってはいるのだが。

もしかしたら、奥深くに誕生を祝われる存在ではないという思いがあるのかもしれないし

誕生日を祝うという習慣そのものが、戦後に広まった歴史の浅いものであるからかもしれない。


自分は、誕生を祝われる存在なのか、

そして祝ってる相手もそうなのか。


もちろん無条件で祝えるのだと思うのだけど。


自分がこの世に存在する


その意味は確かに祝福であるべきだろうし、


そう思えた方が幸せなのだけど


誕生日を祝うという習慣を鵜呑みにするのが、嫌だった自分がいた。


なんて子供のくせに捻くれてるんだろう。



そんな私は、もちろんクリスマスの日本の在り方も大キライだが


キリスト教の禁欲の教えと真逆の

ご馳走・食欲も、プレゼント・物欲も、彼氏とホテル・性欲も満たせる、この日を
とっても活用したことは認める。


誕生日に話しを戻すが


自分が存在することが


あまりにも当たり前すぎて


祝う気持ちや嬉しさのようなものがかなりの割合で起こらないのだ。


自分の存在、他人の存在に対する祝福を

腹の底から感じる日は来るのだろうか。


iPhoneからの投稿