第2話(前編)
録音を消せなかった夜

「介護って、本来は嫁の仕事でしょ?」

スマートフォンのスピーカーから流れてきた義姉の声に、私は何度も再生ボタンを押した。

一度では聞き間違いかもしれないと思った。

二度目は、たまたま言葉の選び方が悪かっただけだと思おうとした。

三度目を聞き終えた頃には、もう言い訳はできなかった。

あれは確かに義姉の声だった。

そして、そのあとに続く義母の笑い声も、はっきりと録音されていた。

「直樹のお嫁さんは文句を言わないもの。」

「これからもお願いしちゃえばいいのよ。」

私はスマートフォンの画面を見つめたまま動けなかった。

消したほうがいいのかもしれない。

人の会話を録音してしまったことに、後ろめたさもあった。

でも、指は削除ボタンを押せなかった。

胸の奥で、何かがささやいていた。

「いつか、この録音が必要になる日が来る。」


翌朝も、いつもと同じ一日が始まった。

午前五時半。

義実家へ向かう前に、自宅で夫の直樹に朝食を出す。

「最近、本当に無理してないか?」

コーヒーカップを手にした夫が心配そうに聞いた。

私は笑顔を作った。

「平気だよ。」

「お義父さんも少しずつ歩けるようになってきたし。」

本当は平気ではなかった。

夜中に何度も目が覚める。

仕事中も集中できない。

それでも夫には心配をかけたくなかった。

夫もまた、休日返上で働き、実家の介護費用を少しでも支えようとしていたからだ。


義実家へ着くと、義父はリビングの窓際に座っていた。

「おはようございます。」

そう声をかけると、義父はゆっくり笑った。

「今日も来てくれたのか。」

脳梗塞の後遺症で右手は思うように動かない。

言葉も少したどたどしい。

それでも、毎日リハビリを頑張っている姿を見ると、私も自然と力が入った。

「今日は天気がいいですから、お庭まで歩いてみましょうか。」

義父はうれしそうにうなずいた。

その様子を見ていた義母が言う。

「あなたがいると、お父さんも安心するのよ。」

その一言だけ聞けば、優しい義母だった。

けれど昨夜の録音を知ってしまった私は、素直に受け止めることができなかった。


昼前になると、インターホンが鳴った。

義姉だった。

高級そうな洋菓子の箱を抱え、明るい笑顔で入ってくる。

「お父さん、元気?」

義父の肩を軽くたたくと、すぐにソファへ腰を下ろした。

「疲れたぁ。今日は道が混んでて。」

私は台所で昼食の準備を続けていた。

義姉は私のほうを見て笑う。

「いつも悪いわね。」

その言葉とは裏腹に、エプロンを着ける気配はない。

義母も当然のように私へ声をかけた。

「お茶もお願い。」

「はい。」

返事をした瞬間、自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

いつの間にか私は、この家で「頼まれる人」になっていた。


昼食を終えると、義姉はスマートフォンを見ながら笑っていた。

「来月、友達と温泉旅行なんだ。」

「久しぶりだから楽しみ。」

私は思わず手を止めた。

その旅行の日程は、義父の通院予定と重なっていた。

「病院の日だけど……。」

そう言いかけた私に、義姉はあっさりと言った。

「お願いね。」

「あなたのほうが慣れてるでしょ?」

その言葉に、義母も何も言わなかった。

私は小さく息を吐き、流し台へ向き直る。

ポケットの中で、スマートフォンが冷たく触れた。

あの録音データが、まるで私に語りかけてくるようだった。

――後編へ続く。