第2話(後編)
「遺産は長男の家が全部もらうものよ」
仕事と介護。
その二つを両立させる生活は、想像以上に過酷だった。
朝は五時前に起き、義父の着替えや朝食の準備をする。
急いで会社へ向かい、定時になると誰よりも早く退社する。
「最近、付き合い悪いね。」
同僚に冗談交じりで言われても、笑う余裕すらなかった。
帰宅すると、今度は夕食の支度と義父の介助が待っている。
義父は認知症が少しずつ進み、私のことを娘だと思う日もあれば、初めて会った人のような目で見る日もあった。
「お嬢さん、うちの妻を知りませんか?」
そう聞かれるたび、胸が締めつけられた。
義父に罪はない。
そう自分に言い聞かせながら、笑顔を作り続けた。
ある日、ケアマネジャーとの面談があった。
「ご家族だけでは負担が大きいので、介護サービスを増やしませんか?」
私は思わず前のめりになった。
「ぜひお願いします。」
その瞬間だった。
義母が穏やかな笑顔のまま口を開いた。
「必要ありません。」
「えっ……?」
私は思わず義母の顔を見た。
「この子が全部やってくれますから。」
"この子"。
そう呼ばれたことよりも、その言葉の中に私の意思が一切含まれていないことが苦しかった。
ケアマネジャーは少し困ったような表情を浮かべた。
「でも、ご本人の負担が……」
義母は笑顔を崩さない。
「若いですから、大丈夫です。」
私は何も言えなかった。
その場で反論すれば、義母の顔を潰してしまう。
そんなことばかり考える自分が情けなかった。
数日後の夜。
夕食を終え、食器を洗っていると、居間から義母と誰かの笑い声が聞こえた。
遊びに来ていたのは義姉だった。
私はお茶を運ぼうとして、ふと足を止めた。
襖が少しだけ開いていた。
中から義母の声が聞こえてくる。
「本当に助かるわ。」
「全部あの子がやってくれるもの。」
義姉が笑いながら言った。
「お義姉さん、優しいもんね。」
義母は少し声を潜めた。
「優しいというより、お人好しかしら。」
二人が笑った。
私はその場で動けなくなった。
胸の奥がじんわり熱くなる。
泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からなかった。
さらに追い打ちをかけるように、義姉がこんな話を始めた。
「そういえば、お父さんたちの家って、将来どうするの?」
義母は当然のように答えた。
「長男の家なんだから、そのままでしょう。」
「でも、お兄ちゃんは……」
義姉は夫の遺影に目を向けた。
義母はためらうことなく言った。
「遺産は長男の家が全部もらうものよ。」
「嫁に権利なんてないわ。」
その瞬間、手に持っていた湯飲みが震えた。
危うく落としそうになり、私は慌てて台所へ戻った。
耳鳴りがしていた。
私は何のために、この家で暮らしているのだろう。
仕事も続け、介護も引き受け、自分の時間も捨てた。
それでも私には、「家族」ではなく「嫁」という肩書きしか残っていなかった。
その夜、布団に入っても眠れなかった。
夫の遺影を抱きしめ、小さな声でつぶやく。
「健一……私、もう限界かもしれない。」
もちろん返事はない。
けれど、その翌日。
私の人生をさらに大きく揺るがす出来事が起こることになる。
――第3話へ続く。
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