【67歳、もう恋なんてしないと思っていた】第1話
夫を捨てた日、私は自由になった…はずだった

離婚届を出した朝

離婚届を提出した日の朝は、驚くほど静かだった。

空はよく晴れていた。

六月の柔らかな日差しが窓から差し込み、リビングを明るく照らしている。

四十二年間暮らした家。

夫婦として生きてきた家。

子どもを育てた家。

泣いた日も笑った日も、この家にあった。

それなのに、その日だけは不思議なほど感情が動かなかった。

私はテーブルの上に置かれた離婚届を見つめていた。

名前はすでに書いてある。

判も押してある。

あとは提出するだけだった。

夫は向かい側の椅子に座っていた。

無言だった。

以前なら、その沈黙に耐えられなかったと思う。

機嫌をうかがっただろう。

怒らせないよう言葉を選んだだろう。

でも、その日は違った。

何も感じなかった。

愛情も。

怒りも。

期待も。

何も残っていなかった。

ただ終わりが来た。

それだけだった。

夫の最後の言葉

市役所へ向かう車の中。

夫は一度だけ口を開いた。

「本当にこれでいいのか」

私は窓の外を見たまま答えた。

「いいと思う」

夫は何も言わなかった。

本当は違う。

良いわけがない。

結婚すると決めた時、離婚する未来なんて想像しなかった。

定年後は二人で旅行に行き。

温泉巡りをして。

孫の話をしながら笑う。

そんな老後を夢見ていた。

でも現実は。

夫が定年退職した途端、地獄が始まった。

朝から晩まで一緒。

家事は何もしない。

感謝もしない。

私を家政婦のように扱う。

そして最後に言った。

「誰のおかげで飯が食えたと思ってる」

あの言葉で終わったのだ。

自由になったはずなのに

離婚成立後。

私は駅近くの小さなマンションへ引っ越した。

築三十年。

決して新しくはない。

でも日当たりが良くて気に入った。

朝は好きな時間に起きる。

食べたいものを食べる。

テレビも自由。

誰の顔色もうかがわない。

最初の一週間は夢のようだった。

友人とランチへ行った。

映画も見た。

温泉旅行にも出かけた。

「良かったね」

みんなそう言ってくれた。

私も笑顔で答えていた。

でも。

夜になると違った。

急に静かになるのだ。

誰もいない部屋。

時計の音だけが聞こえる。

テレビを消すと。

しんと静まり返る。

その静けさが怖かった。

自由を手に入れたはずなのに。

なぜか胸が苦しかった。

一人の夕食

ある日の夕方。

私はスーパーで半額シールの貼られたお弁当を買った。

家に帰り。

テレビをつけ。

一人で食べた。

ふと気付く。

誰とも話していない。

朝から一言も。

誰とも。

話していない。

その事実に驚いた。

結婚していた頃は一人の時間が欲しかった。

なのに今は。

話し相手がいない。

人間は勝手だと思う。

でも孤独とはそういうものなのかもしれない。

友人の突然の死

離婚して一年が過ぎた頃だった。

学生時代からの友人が亡くなった。

脳梗塞だった。

まだ六十八歳だった。

葬儀の帰り道。

私は怖くなった。

もし私が倒れたら。

誰が気付くのだろう。

もし夜中に苦しくなったら。

誰が救急車を呼ぶのだろう。

子ども達は遠方に住んでいる。

毎日連絡するわけでもない。

一人暮らしの現実が急に目の前に現れた。

自由には責任がある。

自由には孤独がある。

そのことを思い知った。

娘の心配

娘は頻繁に電話をくれた。

「元気?」

「ちゃんと食べてる?」

優しい娘だ。

でも。

ある日、こんなことを言われた。

「お母さん、一人で大丈夫?」

私は笑った。

「大丈夫よ」

そう答えた。

でも電話を切ったあと。

少しだけ泣いた。

本当に大丈夫なのだろうか。

そんな不安があった。

人生が終わったような気がしていた

六十七歳。

離婚した女性。

年金生活。

一人暮らし。

世間から見れば。

人生の終盤だろう。

恋愛なんてもう関係ない。

再婚なんてあり得ない。

私はそう思っていた。

これからは静かに老後を過ごすだけ。

そう決めていた。

ところが。

人生は分からない。

ある日の午後。

市民センターで開かれていた歴史講座へ参加した時。

私の運命は少しずつ動き始める。

その時の私はまだ知らなかった。

七十歳を目前にして。

もう一度誰かを好きになる日が来ることを。

(第2話へ続く)


■管理人より

熟年離婚はゴールではなく、新しい人生のスタートです。

しかし自由の裏には孤独もあります。

離婚後に初めて感じる寂しさに悩む方は少なくありません。


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