【夫が定年退職した日】最終話
離婚して一人になった私が、65歳を過ぎて初めて知った幸せ

離婚届に判を押した日

結婚して四十二年。

私たち夫婦は離婚しました。

婚姻届を提出した日のことは、ほとんど覚えていません。

若かったこともあり、未来への希望でいっぱいでした。

でも。

離婚届を提出した日のことは、一生忘れないと思います。

市役所の窓口で書類を受け取った職員さんが、淡々と確認をしていました。

たった数分の手続きでした。

それなのに。

私には四十年以上の人生が終わる瞬間のように感じられました。

悲しみがなかったわけではありません。

悔しさもありました。

若い頃は本当に好きだったのです。

一緒に家庭を築こうと思っていました。

子どもが生まれた時も。

家を買った時も。

定年後は二人で穏やかに暮らせると思っていました。

でも現実は違いました。

私たちは夫婦でいることに慣れ過ぎていて、お互いを思いやることを忘れていたのです。

夫の最後の言葉

離婚成立の数日前。

夫が珍しく私に話しかけてきました。

以前のような強い口調ではありませんでした。

少し疲れたような声でした。

「本当に出て行くのか」

私は頷きました。

夫はしばらく黙っていました。

そして。

小さな声で言いました。

「こんなことになると思わなかった」

私は返事ができませんでした。

私だって思っていませんでした。

結婚した時。

まさか六十代後半で離婚するなんて。

誰が想像できたでしょう。

夫は続けました。

「飯のこととか、そんなに嫌だったのか」

その瞬間。

私は悟りました。

やはり最後まで伝わっていなかったのだと。

問題は食事ではありません。

洗濯でもありません。

掃除でもありません。

私が欲しかったのは。

感謝でした。

思いやりでした。

対等な存在として扱われることでした。

でも。

それを今さら説明する気力は残っていませんでした。

一人暮らしのスタート

私は小さなマンションへ引っ越しました。

築年数は古いですが、日当たりは良好です。

駅も近く。

スーパーもあります。

何より。

静かでした。

引っ越した初日の朝。

私はいつもの癖で飛び起きました。

時計を見ると六時。

朝食を作らなければ。

そう思ったのです。

しかし。

次の瞬間。

気付きました。

作らなくていい。

私一人なのです。

私は再び布団に入りました。

窓から差し込む朝日を見ながら。

ゆっくり深呼吸しました。

その時。

涙が出ました。

悲しいからではありません。

自由だったからです。

娘が見た変化

離婚して半年後。

娘が遊びに来ました。

一緒に昼食を食べていた時です。

娘が突然笑いました。

「お母さん若返ったね」

私は驚きました。

娘は本気でした。

「前より顔が明るい」

「よく笑うし」

そう言われて。

私は初めて気付きました。

確かに最近よく笑っています。

友人とも会います。

趣味の教室にも通い始めました。

読みたかった本も読んでいます。

行きたかった場所にも行っています。

全部。

自分で決められるのです。

元夫からの電話

離婚して一年が過ぎた頃。

一本の電話がありました。

元夫でした。

少し驚きました。

電話の向こうで夫は言いました。

「元気か」

私は答えました。

「元気です」

短いやり取りでした。

夫は以前より弱々しい声でした。

どうやら自炊を始めたようでした。

洗濯も覚えたそうです。

掃除もしていると言っていました。

私は複雑な気持ちになりました。

できるのなら。

なぜ結婚している時にやらなかったのだろう。

そんな思いもありました。

でももう終わった話です。

私は恨んではいません。

ただ。

戻りたいとも思いませんでした。

65歳を過ぎて初めて知った幸せ

世間では熟年離婚を不幸だと言います。

確かに経済的な不安はあります。

一人暮らしの寂しさもあります。

病気になった時は心細いです。

それでも。

私は後悔していません。

なぜなら。

今の私は自分の人生を生きているからです。

誰かの顔色をうかがわない。

誰かの機嫌を気にしない。

朝起きる時間も。

食べる物も。

行く場所も。

全部自分で決められる。

そんな当たり前のことが。

私にはとても幸せでした。

時々思います。

もっと早く決断していたらどうなっていただろうと。

でも。

きっと今が私のタイミングだったのでしょう。

人生はいつからでもやり直せる。

六十代でも。

七十代でも。

遅すぎることはない。

そう信じています。

今日も私はお気に入りのマグカップでコーヒーを飲みます。

窓から差し込む陽射しを浴びながら。

静かな部屋で。

自分のためだけの一日を始めるのです。

― 完 ―


■管理人より

熟年離婚は決して簡単な選択ではありません。

しかし、「離婚したこと」よりも「自分らしく生きられなかったこと」を後悔する方も少なくありません。

人生100年時代と言われる今、60代はまだ人生の通過点です。

皆さんなら、どんな選択をしますか?


■体験談募集

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・定年後の夫婦関係の変化
・離婚後の一人暮らし
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