天蓋付きのベッドに、バルコニーに続く大きな窓。豪奢な装飾のドレッサーに、煌びやかなドレスたちが収められているクローゼット。
天井まである巨大な扉をそうっと開けてキョロキョロと周囲を見回し、プライベートルームを静かに抜け出す。
「よし、誰もいないわね」
「……ルナ、さすがに今日はまずいんじゃない?」
泥棒のように抜き足差し足で、地下通路を目指すのだ。
声を潜めて忠告をしながら後を追いかけて来るのは、猫のクロワッサン。
足音を全て吸い込む廊下のペルシャ絨毯は、おじい様の特注で仕入れたもので……そう、足音を吸い込んでくれるおかげで、私はこうして今日も、誰にも気づかれることなくお城を出て行くことが出来る。
「クロワッサン、私はやってみせるわ」
「ちょっと、フルネームで呼ばないでっていつも言っているでしょ」
銀色の長い毛並みのこの子は、しっぽだけが茶色く、三日月のようにくるりと曲がっているので、クロワッサンと名付けた。
ちなみに名付け親は私ではなく、お父様だ。クロワッサンは今でも納得がいかないらしく、クロワと呼んでくれと言う。
「ごめんごめん。でもね、クロワ。それこそ早くしないと間に合わなくなっちゃうでしょ」
おしゃれをすることも好きだし、家庭教師の先生との勉強も、マナーのお作法も、私はどれも苦痛ではない。
窮屈な暮らしだと感じることはあるけれど、私たちがそれを習得するのは、全て大切な民のためだから。
そう、私はこの、フォルモーント王国のプリンセスだ。
「まずは灯りをつけなくちゃ」
目を閉じてイメージをする。
心の中で赤々とした炎を描くと、壁に掛けているいくつもの松明が点火した。地下通路を進みながら、私は“準備”をしていく。
まずは、着ていたドレスを黒のワンピースに。金色の髪の毛のトーンを赤毛に。私だとわからないように変える。
「どう? 今日もばっちりよね。じゃあ、クロワ。あなたもね」
「私は不本意なんだけど……」
最後の仕上げにと、クロワを黒猫に変身させる。魔法使いには黒猫、これがセットよね。
「さて、急がないと先生が待ってるわ!」
出口が見えて来た。壁に立てかけていた箒を手に取り、跨る。トントン、と持ち手のところをそっと叩くと、それが合図。
私たちを乗せた箒は、旋回しながら空へ飛び上がった。
「今日も、私の国は元気! 本当に良かった」
眼下に、大好きな街並みが広がる。段々になった崖の上を、カラフルな家々が所狭しと並んでいる。
先端には港があって、丘の上には、古い時代に建てられた大きな教会が臨む。
エメラルドグリーンとオレンジが交じり合ったグラデーションの海は、こうして真上から見るととても美しい。
海鳥たちが傍を飛び、人々の声があちこちから聞こえて来て賑やかだ。
小さな国だけれど、争いが起きたことがないのが自慢。
「みんなが笑って、元気に過ごせますように」
胸に両手を当てて願う。
ポワ……と、暖かなエネルギーが中心に集まって来る。まあるくまあるく育てるようにイメージをすると、赤く燃えるような光が大きくなっていく。
「みんな、受け取ってね!」
手をパチン! と鳴らすと、光が弾けて国の全土にシャワーのように降り注いだ。
すると、気づいた人たちが嬉しそうに両手を上げてくれた。
私が“魔法使いの見習い”になったのは、理由がある。幼いころ、乳母をしてくれていた大好きなマリアが、寝物語で聞かせてくれた絵本の主役が、可愛い魔法使いの女の子だったこと。
私もいつか魔法使いになりたい、と呟いたとき、優しく言ってくれたのだ。
『ルナ様なら必ずなれますよ』
『本当に?』
『ええ、本当ですとも』
その時は真に受けて、実現するものだと信じていた。でもやがて、子どもの戯言に合わせてくれただけかと気づき始めた。
それはマリアの親心のようなものだともわかったから、傷ついたりはしなかったけれど――一抹の寂しさを覚えながら大人になろうとして……
『お父様、お母様、この国に何が起こっているの!?』
『ルナ……お前は何も心配しなくていい。大丈夫だよ』
『大丈夫じゃないわ、だってこんなにみんなが苦しんでいる!』
豊かな財のある国ではないけれど、日々を楽しく生きることにかけては右に出る者がない、自慢の国だった。民のみんなが宝物で、彼らの暮らしそのものが私たちの誇りだった。
そんな民の表情が抜け落ち、病が蔓延り、不漁続きで賑わいが失われ、空を雨雲が覆っている。
両親はあちこちから賢者や指導者を呼び、どうにか出来ないかと助言を仰いだが、悪化の一途を辿っていた。
『ルナ、待ちなさい!』
母の制止を振り払って走った。お城の天辺に繋がる階段へ、ドレスをまくり上げて登る。
毎年誰もが楽しみにしている、春のカーニバルが目前だった。今頃、準備に追われている時期のはずなのに、今はもうそれどころではない。
『どうしたら……私は、どうしたらいいの』
国を一望出来るこの場所は、私の逃げ場でありお気に入りだった。手すりに額をつけて、途方に暮れる。
『――ルナ様』
『え……マリア……!』
振り返ると、マリアが立っていた。冷えますよ、と、自分のかけていたストールを肩に巻いてくれる。
『どうしたのです。いつも天真爛漫なあなたが泣くなんて』
戻って来てくれたの? と、私は呟いた。
マリアは私が14歳になった頃、城を離れていた。乳母を必要としなくなったから、と聞かされていたが、お別れも出来ずにさよならしたことをずっと寂しく思っていたので、いるはずのない姿に驚く。
あの頃とちっとも変わらない、ちょっぴりふくよかで、上がった鼻とそばかす、カールをした黒髪に、紫の瞳。
『みんなが苦しんでいるのに、私には何も出来ないから……』
ストールから漂う懐かしいマリアの香りに、こみ上げてくる涙を咄嗟に手で押さえる。
私を抱きしめてくれた時によく包まれた、フランキンセンスの香り。
『何を落ち込んでいるのです。申し上げたでしょう? あなたは魔法使いになれますよと』
『そんな子ども騙し、こんな時にまで……!』
『子ども騙しだと思いますか? あなたはおわかりのはず』
励ますための冗談ではないと、マリアの透き通る瞳で見つめられてわかった。
ドクドクと、心臓の鼓動が強くなる。
『あなたには、王家の者にのみ宿る秘密の力があるのです』
真っすぐに射抜かれて告げられた言葉は、衝撃的なもの。でも、どこかでわかっていた。
お医者さんの手に負えない腹痛で苦しむ男の子に、“治りますように”と祈ったら一晩で治癒してしまい、奇跡だと騒ぎになった。
朽ちかけた森の木に手を当てると、小さな芽が顔を出した。
台風で帰港出来ず、行方不明になっていた漁船の無事を祈ると、誰一人欠けることなく翌朝戻って来た。
羽根が片方怪我をした小鳥を撫でていたら、飛べるようになった。
枚挙にいとまがないが、どれもこれも私が昔から体験してきたことだ。
それも――夢の中で。
こうあったらいい、こうなれたらいいと思い描いて眠りにつくと、全てが上手く行っている映像を夢で見る。それも、ありありと、本当にそうあるかのように。
そして目を覚ますと、全く同じことが翌日に起きるのだ。
『偶然かと思っていたわ……』
『いいえ。ルナ様が御覧になられていた夢は、ただの夢ではありません。そもそも夢そのものが、本物の魂の世界。あなたは、この世と魂の世界とを繋ぎ、自由に行き来することで』
『――そうだわ。人の中に眠るスイッチを入れたの』
マリアの声を遮るように続ける。
病気に苦しむ人を私が癒すのじゃなく、その人の治癒力を高めた。枯れた樹木に手を当て、生命力を増幅させ、行方不明の漁船に乗る人たちの“生きようとする意思”を最大まで引き上げた。傷ついた小鳥のことも同じだ。
全てを理解していたかのようなマリアが頷く。
『王家の人間には、ある一定の時期に“覚醒”が起きます。多くが思春期の年の頃ですが、ルナ様はとても早く目覚められました。だから私は申し上げたのです。あなた様は、魔法使いになりますよ、とね。既にその素養が滲み出ておられましたからね』
マリアがにっこりと微笑んだ。ほら、と指さす方向の空を見ると、お陽さまが射し込んでいる。
嘘みたいだ。
もう何週間も、晴れ間なんてなかったのに。
『あなたの心に光が満ちれば、それに連動するのですよ』
さあ、目を閉じて……と促されるまま、私は瞼を降ろした。
『思い出してください。お小さい頃から、あなたはこの力を使って遊んでいらしたことを。あなたが夢の世界を思うままに描くことで、この国全土が影響を受けます』
私の胸の奥に、夢の種がある――虹色の種は、キラキラと瞬くダイヤモンドのように美しい。
丸くて、優しくて、見ているだけで心が柔らかく解れていく。不安が溶けていく。
そうだ、ずっとあったね。
私のかけら……この虹色の種が、私の願いを叶えてくれていた。
夢と希望が形になるのを助けてくれていた。
生まれた時から私は、一緒にいたんだ。だって、握りしめて生まれて来たの。
この種が花開くとき、あちらとこちらは一つになると知っていたから。
栄養は、喜び。ワクワクすること、楽しく生きること。大切な人たちの幸福――。
一緒にご飯を食べ、踊り、遊びながら楽しみに育てて来たのだ。
『青い空が、透き通った海が、この国のみんなが大好き……豊かな土、美しい水、愛らしい花たち、焼き立てのパン、活気のある街、動物たちが集まる森、笑い声……遊んで、子どもたちが駆け回って、安心して暮らせる毎日が、ここにある』
脳裏に広がる愛おしい日々をありありと想像する。すると、少しずつそれが実態を持ち始めた。
頬を撫でる風の涼やかさ、潮の匂い、土を踏む足音、掛け声がする。
ふわりと私の髪の毛が持ち上がり、身体の周りを熱気が包み込んでいるのがわかった。
今だ、と思い、私は目を開ける。
『あなたは――』
手すりに、染み一つない真っ白な、それは綺麗な鳥が留まっている。
この国にはいないはずの鶴だ。
だけど、私には覚えがある。
夢の中で何故かいつも、私を導いてくれた鳥がいた。困った時、どこからともなく現れてヒントをくれるものだから、目が覚めても覚えていた。
『……マリア?』
全てを見透かすような眼差しは、紫色の瞳をしている。間違いなく、この鶴はマリアだ。
『マリア、待って!』
バサリと翼を広げて、鶴が飛ぶ。慌てて身体を乗り出すと、フルーツや野菜を積んだマーケットが開かれ、港には様々な漁船が入っては出港して行くのが見えた。これまでの日々が幻のように、かつての明るい空気に満ちた国が戻っている。
『ルナ、今やったばかりじゃない! イメージするのよ』
『クロワ!』
ピョンっとクロワが肩に飛び乗って、くるりと尻尾を巻いた。
『そうだ、私は……』
再び目を閉じる。
私は、何でも出来る魔法使い。
魔法の箒で空を飛び、自由自在に願いを叶える。 行きたいところに行き、会いたい人に会うことが出来る。
深呼吸をして、私の中の夢の種に繋がった。
『“我の元に出現せよ……どこまでも速く遠く、駆け抜ける箒!”』
口から自然と溢れた言葉が歌のように響き、目を開けると、私の手の中には大きな箒。ひとりでにピョコピョコと動いている。意思を持っている生き物みたいだ。
全身は黒のワンピースに早変わりし、とんがり帽子を被っている。ディテールまで完璧だ。
『クロワ、行くわよ!』
箒に跨ると、クロワは承知している、といった様子で箒の先端に飛び乗った。
あの鶴の後を追わなければという一心で風に委ねる。
それが、無我夢中で私が経験した、最初の空中飛行だった。
「ねえ、クロワ……あの時の騒ぎはなんだったんだろうね」
「さあね。上手く行ったのだから良かったじゃない?」
当時を思い出しても不可解なところが多い。
あれほどの事態に陥っていたというのに、国の危機は信じられないほどの速度で消えてしまった。
再び魚が豊富に獲れるようになり、流行り病は快復し、作物が山のように良いものが実った。
「あっ、先生!」
賑わいのある街並みから外れたところにある、渓谷の間にある小さな家が見えて来た。壁に蔦が這っていて、古めかしい建物だ。
「ルナ様、私を先生と呼ぶのはおやめくださいと申し上げましたでしょう」
私が来るのがわかっていたように、マリアが入り口のところで待っていた。
「あら、それなら師匠のほうがいい?」
渋柿を食べたみたいな顔をしているこのマリアは、私の能力を見通して両親が乳母として雇い入れた魔女だと、後から教えられた。いざという時のサポート役と、安全装置として。
ちなみに見通したのは、未来を予知する能力がある兄様だったらしい。
「ねえ、マリアは、私を導くためにいたのでしょう? それなら」
「どうして、あなたの傍を離れたのか。私とルナ様は同じではないからです。私のような一族代々の魔女と、目覚めることによって開くあなたの力は、似ているようで別物。ですから、手取り足取り教える必要はなく、見守ることが重要だったのです。いずれやって来る、通過儀礼を乗り越えられるように」
二人でマリアの家の中に入りながら、いつもの居間に通される。
暖炉の炎は黄金に燃えていて、テーブルの上の二客のカップにはお茶が注がれていた。
壁を埋める大きさの本棚には、読むことが出来ない文字で書かれた分厚い本が、ぎっしりと収められている。
「通過儀礼……もしかして」
「さあ、ルナ様。今日は新しい魔法を実践していただきますよ」
「新しいこと?」
マリアが居間の壁に掛けてある絵に手をかざすと、ギギ……と絵が横に移動する。そこには、黄金の光が大きな穴を象っていた。
「いつものように目を閉じて……心の奥に思い描くのです。そして、自分が、大いなる輝きに守られていることを感じて。あなたを愛する者たちの元へ引き寄せられていきます」
誘導する声に意識を委ねていくと、全身の細胞が粟立っていくのがわかる。
「誰よりも勇敢で、ひたむきな情熱があって美しい、プリンセス・ルナ・マウロア。ご成人のお誕生日おめでとうございます」
私が目を開けると、パチパチパチパチ! という盛大な拍手の音と「おめでとうございます!」という声が響き渡った。
フラワーシャワーが降り注ぎ、複数のテーブルにかけられていた布が一斉にどけられて、ごちそうがお目見えする。
「みんな……お父様、お母様!」
噴水のあるお城のポーチに、私の大好きな国民たちが集まっていた。
「ルナ、全くお前って子は。誕生日おめでとう」
「修行に行くのは目に見えていたので、逆に準備が進められて助かりました」
父が呆れたように苦笑し、母が私にティアラを乗せてくれた。いつの間にか、私の魔法使いの出で立ちから、細やかな刺繍が施されたドレスに変わっている。
「プリンセス・ルナ様、おめでとうございます! いつも私たちを気にかけてくださるから、とても安心出来るのです」
「ルナ様の魔法、面白くて好き! パンがお菓子になるから嬉しいの」
「あっお前、それは言っちゃだめだろう! 変装がバレバレだって内緒なんだから」
民のみんなが勢揃いしていて、口々に祝福を贈ってくれる。
「さあ、イメージをして。特別な願いをかけてください、ルナ様」
マリアが運んで来たのは、三段重ねの大きなフルーツケーキ。ロウソクに火がつけられていて、私の前に置かれた。
「ええ、任せてちょうだい!」
意気揚々と答えた私はまだ知らなかった。
国名のフォルモーントというのが、太古の言語で“夢の花”という意味であったことを。
そして、この国のかつての硬貨に彫られていたのが、“鶴の紋章”であったことを――。