久喜・幸手・白岡  リトミックから継続して 楽しく専門的に学べる『小梶ピアノ教室』です。


先日、ピアノレッスンを受け持っている大学で、興味深い発表を聴くことができました。

いくつもの大学で教えている他、メディア関連の執筆などお仕事を様々にされている先生で、今年からこの大学でも、私がサブで入っている初等音楽の授業のメインをされている先生の発表です。


『映画を聴く
      ー音からのメディア・リテラシー』

最初にある音を聴き、何の音か?どこの国のか?を考えます。

同じ蛙でも、日本で聞いているのとは全く違う鳴き声でなく蛙がいるんですね。

また、世界の大都市の音も、クイズ形式で聴きました。

日頃、あまり意識していませんが、雑多な音の中に、その都市特有の音ってあるんですね。

車の音、大聖堂の鐘の音、ゴンドラを漕ぐ音etc.

サウンドスケープとは、音の風景と言う意味ですが、音を、音楽と騒音という対立した二種類に分けずに、全てをひっくるめて環境として考えるという考え方のようです。

先程の大都市の音を例にとると、私達はサウンドスケープの聞き手であると共に、作り手でもあるということになりますね。

よくわかる作品例として、有名なミレーの絵画『晩鐘』が紹介されていました。

鐘はどこにも描かれていないけれど、その一日の終わりの風景を見て、あたかも鐘が鳴っているかのように聴き取ることができます。確かに!

後半では、ジブリの『天空の城ラピュタ』の日本版と北米版を見比べ、場面ごとに“音”がどう違うか、いくつか見せていただきました。

ディズニーが、この映画をアメリカで配給するにあたっては、音楽を自由に変えるという条件だったそうです。

長くなってしまうので、一つとても印象的だったことをいいますと、ここぞ、というクライマックスで日本版では考えに考えた挙げ句、音を消した!(無音にした)ということでした。

音がないことで、緊張感を生み、観る人のそれまでの体験に基づいた感性で、逆に豊かに感じとることができるのではないかと思います。

想像がより膨らむというか。

因みに、北米版では、バックミュージックがずっと、流れていました。

それぞれの土地で、音に対する文化が違い、意味合いも違うことがよくわかりました。

先生が、ラピュタの音楽を担当された方に、マル秘で聞いたところ、こんなに変えられるとは、というようなことを仰ったそうです。(監督はどう思われたのでしょう)

一本の映画の、もう出来上がっている音楽を、全て作り替える、ということで、別の作品のように感じられる場所があったり、聴取点(誰の立場で音をつけるか)の違いで、同じように鳴っている音(効果音)でも大きさが違ったり、興味深かったです。

道徳的な配慮で、他国で上映される場合、手直しがはいることは聞いたことはありましたが、丸々全部です。

他の作品でもあるのでしょうか?
逆に、ディズニーの映画が日本で上映されるときは?

いろいろ疑問も出てきますが、
先生も仰っていましたが、どちらの文化がいいとか、悪いとかではないのです。

映画からもその国、地域の特徴が伺い知ることができるということですね。

ただ、自国の文化に直すことが、よその国の文化(それがたとえその国の常識ではおかしいものとしても、)を見る機会を奪うことになるのは、残念な気もしますので、ほどほどがいいですね。

こんな手間のかかることは、全ての映画に当てはまることはないと思いますし、裏を返せば、余程大切に扱われていることだと思いますしね。

音といえば、最近、音がどこででも鳴っていて、無意識に聴き流していている音が多くなっているような気がします。

音に関わる仕事をしているだけに、たまには心静かに周りの音に耳を澄ませる時があってもいいな、と思いました。

季節の移り変わりが目や匂いだけでなく、音からも感じられますね。

そんなことも考えるいい機会をいただきました。

いずれにせよ、しばらくの間、映画やドラマを観るとき、音に注目し過ぎてしまいそうですが(苦笑)