ハワイに行った時の、レフアの花。
ハワイのオヒアレフアは、木がオヒア、花がレフアで、女神ペレによって引き裂かれた恋人達の姿、という神話があります。
「姿は変わっているが、一緒にいる。それに気がつけるか?」
…気がつけたら安らかなのかな、それでもないものねだりをするのでしょうか?
ないものねだりしていることが、
「今もあなたを愛している」
の、表明だと、どこかで思っているのでしょうか?
表明する必要がないことに、どこで気がつくのでしょうか?
ご相談の中でたまに、
「最愛の人を失った」
という悲しみから抜け出せない、という方が、おいでになります。
ご相談中、私は自然にチャネリングもしています。
「いや、隣におられますよ」
と、お伝えすることが多いかもしれません。
亡くなってすぐだと、尚更存在を感じやすいですね。
というより、存在を伝えて欲しくて、ここに繋げられたのかな?とまで。
ある方は、
「一緒にいてくれるかな?見ててくれるのかな?
彼にあてた手紙を沢山書くのだけど、読んでくれているかな?」
と、亡くなってしまった最愛の方のことを、ずっとおっしゃっていました。
「今おられますし、見ておられますよ。
手紙も、あなたの目を通して、読んでおられます」
と、お伝えしました。
その時の、ちょっとした違和感に、後で気がつきました。
それは、立ち位置なのです。
普段誰かが観える時、相談者の背後隣ぐらいなのです(視覚で見えているというより、情報として、そこにおられるなというのがわかる感じ)。
この時は何故か、相談者と机を挟んで、斜め向かい合わせの位置に立っておられる感じが。
なので、相談者の横顔と、その最愛の方のお顔を前から、交互に見る感じでした。
「私が見やすいように、伝えやすいように、なのかな?」
と、思っていたのですが。
違うことに、後で気がつきました。
「彼女の姿を、ずっと見ていたいんだ。」
「手紙の内容より、手紙を書いてくれている彼女を見ていたいんだ。」
本当に大好きなんだね、と、気がついたら、胸がいっぱいになってしまいました。
そして、最愛の人は、実は失うことなんてないんじゃないかな、という、魂の視点が、ありありとやってきました。
人間としての視点で見れば、ぞっとするほど怖い、喪失なのですけどね。最近その怖さがよくわかるようになりました。
一方、亡くなってから時間が経っていれば、そこまでいつも隣に、ということがないような気がします。
必要な時は来られるけれど。
それはまた、信頼でもあると思うのです。
亡くなった方から届くものはだいたいいつも、
「愛しているよ」
「好きに生きなさい」
という、時を感じさせない、深く広い愛です。
生きている方からは、なかなかそう思いにくいものですが。
「失ってなどいない」
と、相手と自分の関係を、もっと信頼してもらってもいいと、私は思います。
勿論、すぐにではなくて良いですよ!
