上田城の紹介5 上田市立博物館の紹介前編 | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は上田市立博物館前編の紹介です。

ただし、大河ドラマ館(旧上田市民会館)では1か所

のみ撮影可でした。明日紹介します。

最初に上田市立博物館からです。撮影禁止のもの

は除いて、撮影可の中からその一部を紹介します。

上田市立博物館です。この左に別館があります。

 

別館(元山本鼎記念館)です。真田三代の特別展でした。

 

最初は上田のジオラマです。

上田城下町のジオラマです。

 

城下町の周囲を囲うように、8つの村(城下の八邑)がありました。

 

 

千曲川から見たジオラマです。

おそらく1700年の頃を参考に制作したのでしょう。

 

幕末に建造された籾蔵が6棟ありましたが、

その跡に上田市立博物館が造られました。

 

1647年頃の上田城地図(前回UP)です。

神川用水からの取水川が上にあります。

城が完成したころの古絵図です。

東方向からのジオラマです。今は堀底が遊歩道になった、

二ノ丸の三十間堀から、本丸登城道を赤線で書きました。

この遊歩道も当初は水堀でした。そして二ノ丸に入ると、

虎口を抜けて、さらに水堀があります。本丸の堀に突き当

たり、二ノ丸内虎口をさらに抜けて、武者溜前を通過して、

本丸東虎口櫓門に行けます。

 それにしても、二ノ丸は土塁と石垣だけで、櫓が造れな

かったのが残念です。仙石忠政が長生きしていれば建造

したと思います。そして、武者溜跡が今「大河ドラマ館」と

広場になっています。ここも復元して欲しいですね。

千曲川が低いので、千曲川に面した堀部分は崖に堤防

を造り、水が流れ落ちないようにしています。

 

現在の上田城です。

 

元禄15年(1702年赤穂浪士討ち入りの年)の古絵図です。

残念ながら、二の丸の中が空白で描かれていません。

 

元禄時代の二の丸内部は

元禄時代の二の丸内部の絵図(掲示板)です。

1647年とあまり変わりがありません。

 

幕末の1860年頃の上田城です。

二ノ丸内が空白の地図しかありませんでした。
 

幕末の古写真があります。

明治7年(1874年)より民間に払い下げとなり、

既に本丸南櫓が取り壊されています。

 

明治初期の、御屋形の御殿式台前での古写真です。

 

藩校の明倫堂です。明治25年本丸内に移築されて、

近年まで料理屋として使用されました。

 

次に、江戸時代の農民一揆について

 

明治2年の強訴・打ちこわしは世直し一揆と言われます。

水飲み百姓は作ったお米の、5~6割を藩へ、さらに

1割から2割を地代に払うので、生活は苦しかったと

思います。庄屋や役人の不正が意外と多いですね。

それから、大きな一揆は25年当たり1回起きていま

す。貧しい者は食べるものが無い時代でした。やくざ

に強奪されているという状態でした。

 今でも使うチャラいという言葉が、この時もニセ二分

金で使われていました。ニセ二分金は本物より少し

かったのでしょう。

明治2年の一揆で焼けた(赤い所)、海野町付近の古地図です。

 

赤丸の辺りが海野町です。城下のメインストリートで、

富裕層の商人が多く、焼き討ちや打ち壊しにあいました。

村方でも庄屋や富屋が269戸打ち壊されました。現在

松平時代のことは語られません。

 

上の表5番の宝暦一揆首謀者の墓です

これは宝暦11年(1761年)の上表5番の一揆です。

全藩惣百姓一揆とあります。その時死刑になった一揆

の指導者の墓です。千曲川の川原で処刑になりました。

 

最後にニセ官軍の赤報隊事件です

幕末の赤報隊のニセ官軍事件です。

原因は年貢半減令を勝手に出した

ことで、上田藩からニセ官軍とされて

幹部はほとんど死刑にされます。

生き残りの丸山徳五郎のその後は、

官吏となり処刑された彼らの墓を建

てて名誉回復に務めました。

 

長くなるので今日はここまでです。

明日は後編と大河ドラマ館の紹介です。

 

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