本当に人って単純なんだなあ、と思うときがある。
単純は悪いことじゃない。良いこともある。
が、ここでは、良い意味でじゃなくて、短絡的と言ってもいいかもしれない。
この話は決して特定の何かを指していたり、ましてや特定の誰かを指していたりはしない。
だいたい皆、すべての読み物に自分を投影するから、こういうの書くと必ず「それって私のこと?」とドキドキしたりするけど、そうじゃない。そんなにわかりやすく個人のことは書きません(笑)
こういうことを感じる場面はたくさんあって、それを抽象概念にしたものを、理解しやすくするためにあえてまた具体的なたとえ話(フィクション)にした。
たとえばいろんな種類のセラピーを受け続けてきた人がここにいるとする。
Xというセラピーを受けて、次にYというセラピーを受けて、Zというセラピーを受けたとする。
Z というセラピーを受けたときに、めちゃめちゃ楽になった、突き抜けるような解放感を感じることが出来た。
嬉しい!
良かった!
Z セラピーすごい!
そう、それは当然そうなるし、それでいい。
そこまではごく普通の人なら当たり前のこと。
ただ、良かったね、という話。
だけど、
私が違和感を感じるとき。
それは
「だからZ セラピーが最高で唯一無二で、Zセラピーだけで何でも解決出来る!私はZセラピーで救われたからみんなZ セラピーだけやればいいよ!」
みたいになってる人を見たとき。
ちゃうちゃう、それちゃいまんがなー、単純通り越して短絡的すぎるだろう、という気分になるのだ。
そこまでならまだしも、
「XセラピーとかYセラピーは私も知ってるけどあそこがこーであーで、ここがイマイチで・・・。だからZセラピー最高!」
とか言い出したらもう「わかってないんだなー」、と残念な気分になる。
この人に決定的に欠落しているのは、「プロセス」という視点だ。
Xセラピーを受けた結果の自分がYセラピーを受けて、そのまた結果の自分がZセラピーを受けたときに、冒頭の感動の変化が起きた、わけね。
途中の過程には感動的な実感はなかったかもしれないけど、たしかにそこにそのプロセスは進行していたのだ。
そして今の自分がある。
そういう視点を持たない人は、
しばしば上のたとえ話のような反応をしがち。
そういう人がいちクライアントのうちはまだいいけれど、Zセラピーに感動したからZセラピストになります!と提供者側に回ることがある。
すると、Zセラピー至上主義みたいになって、なんでもかんでもZセラピーで人を救えるような錯覚に陥る。
ただの錯覚だから、早晩うまく行かないケースにぶち当たり、あれ?おかしいな、となるわけだけれど。
人にはプロセスがある。
起因する事象があってプロセスがあって、今の自分がいる。
必ずね。
今のあなたは突如としてひとりでにそこに発生したわけではない。
あ!だけどもしかしたら、
今の自分は自分ひとりでこの世に生まれてひとりで大きくなったと思っていたりするかな?
お父さんとお母さんがいて、自分が生まれて、育てられたプロセスがあるから、今の自分がいる。
という当たり前のことが
もしどこかで当たり前に感じられないときは、注意信号かもしれない。
それは、過去のプロセスを認めない意識の表れであり、自分の一部を肯定していないことに繋がる。
どうしてそう言われると抵抗があるのか、自分によく問いかけてみるといい。