業を煮やす。業が深い。こうした用途からイメージする「業」は、しばしば、ある結果を生む善悪の原因として語られます。
ときに「業」を悪業、罪とだけ断片的に捉えた場合、本来進むべき道を誤ることにもつながります。宗教によっては「カルマ」とも呼ばれ、今ある全ての結果を「カルマを落とさなければ、未来はない」とまで思い込み、浄財をつぎ込む人までいます。そういう人は何か悪いことが起こっても「自分の業のせいだからしかたがない」とあきらめてしまいます。そして「この悪業、罪をなんとかして振り払わねば」と深みにはまってしまいます。
しかし、仏教における「業」は、単純にカルマや罪と一言では言い表すことはできません。その本質は「身・口・意」が引き起こす「身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・思巳業(しいぎょう・精神的行為)」の働きにまで及ぶのです。
例えば仕事で失敗したら、それは自分の意志が弱かったり、言動が影響していたり、あるいは足を運ぶ努力が足りなかったりといういろいろな理由があります。それを「努力が足りなかった、次はがんばろう」とか「言葉足らずで契約を逃した。次は相手の立場になって説明しよう」と反省して、次につなぐことが大事なのです。
それなのに「何をやってもうまくいかない。これは悪業のせいだ」とまで考えるのは、あきらかに行き過ぎです。
社会、先生、家庭のせいにして、責任転嫁をしてもうまくいきません。「自業自得」の言葉も、ちゃんと根っこから捉えれば、自分の「身・口・意」の不足だと真理に気づき、新たな展開への糸口を探るための言葉だと分かるでしょう。
一度試験に落ちたり、仕事で失敗したりしても、それが未来永劫続くわけではありません。逆に、成功した体験でおごり高ぶるようなことがあれば、良い未来にはつながりません。
無用な運命論にとらわれる必要はありません。自分の意思と言葉と行動で、明日を切り拓いていきましょう。
ときに「業」を悪業、罪とだけ断片的に捉えた場合、本来進むべき道を誤ることにもつながります。宗教によっては「カルマ」とも呼ばれ、今ある全ての結果を「カルマを落とさなければ、未来はない」とまで思い込み、浄財をつぎ込む人までいます。そういう人は何か悪いことが起こっても「自分の業のせいだからしかたがない」とあきらめてしまいます。そして「この悪業、罪をなんとかして振り払わねば」と深みにはまってしまいます。
しかし、仏教における「業」は、単純にカルマや罪と一言では言い表すことはできません。その本質は「身・口・意」が引き起こす「身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・思巳業(しいぎょう・精神的行為)」の働きにまで及ぶのです。
例えば仕事で失敗したら、それは自分の意志が弱かったり、言動が影響していたり、あるいは足を運ぶ努力が足りなかったりといういろいろな理由があります。それを「努力が足りなかった、次はがんばろう」とか「言葉足らずで契約を逃した。次は相手の立場になって説明しよう」と反省して、次につなぐことが大事なのです。
それなのに「何をやってもうまくいかない。これは悪業のせいだ」とまで考えるのは、あきらかに行き過ぎです。
社会、先生、家庭のせいにして、責任転嫁をしてもうまくいきません。「自業自得」の言葉も、ちゃんと根っこから捉えれば、自分の「身・口・意」の不足だと真理に気づき、新たな展開への糸口を探るための言葉だと分かるでしょう。
一度試験に落ちたり、仕事で失敗したりしても、それが未来永劫続くわけではありません。逆に、成功した体験でおごり高ぶるようなことがあれば、良い未来にはつながりません。
無用な運命論にとらわれる必要はありません。自分の意思と言葉と行動で、明日を切り拓いていきましょう。