coharuです。
瞑想してたら気がついた、
愛にはカタチがあるのかも知れないこと。
なんか大事なことのような気がするので
備忘録として記事にしておこうと思う。
私は長女なのでしっかりしなきゃ、
ちゃんとしなきゃ、といつも思ってた。
でもそれが母からの洗脳だと気がついた。
「洗脳」や「呪い」という言葉を使うこと自体
私自身の被害者意識の表れなんだけど・・・
劣等感の塊の母が
「うちはトンビがタカを産んだから」
って、
うれしそうに話す姿を何度か見たことがある。
母はそうやって
理想の娘を作ることで
自分の劣等感を解消していたんだと思う。
もちろん無意識だけど。
そう思ったとき、私は
母親が自分の劣等感を解消する
ために使われたかわいそうな娘
という前提があったんだと思う。
私が校則違反を繰り返しても
タバコを吸ってもピアス開けても
夜遊び繰り返しても
何も言ってこなかったから
「ウチは放任主義でさ~」
なんて友達によく言ってた。
だから余計に私のなかの
被害者意識が大きくなって
親にすら注目してもらえない
かわいそうな自分っていう認識を
無意識に強めていったのかも知れない。
そういうときは余計に
周りがうらやましく見えるもので
友達のお母さんたちは
いつも笑顔で
上品でキレイで
料理が上手で
両手を広げてギュッとしてくれる
なんていうか
やさしくてあったかい愛を感じる
お母さん
だから
いつも目が△で
化粧っ気なくて
料理もヘタで
いろんなことに不器用な私の母に
やさしくてあったかい愛を感じる
ことはなかった。
むしろ私が母親のように
ある頃からは世話をするように
なってしまってた。
だけど、ふと思った。
子供の目には
私にばっかり「ちゃんとしろ」って言って
弟ばっかりかわいがって
料理もヘタだし
お化粧しなくてキレイじゃないし
いつも怒ってばっかだし
って見えた母親だけど
母親は母親なりに愛してくれて
いたんだろうな、って思えた。
ちゃんとしろと言うことや
理想の娘にしようと躍起になることが
母親なりの愛のカタチだったんだろうな、って。
友達のお母さんみたいじゃないけど
不器用なお母さんだけど
それが「私の」お母さんなんだな、って。
いつかの仁さんのブログに
奥様の愛情表現がない気がして聞いたら
ごはん作ってるでしょ?って言われて驚いた
って書いてあった。
自分の思う愛情表現と
相手の思う愛情表現て
違うんだよね。
だから
私が思う「母親の子供の愛し方」と
母が思う「母親の子供の愛し方」が
違ったっていうだけで
愛があることに変わりはなかった。
私は母親になったことないから
まだわからないこといっぱいあるけど
家事で忙しいのに
まして弟妹がいれば
そっちに手がかかるのに
目の前に言うことをきかない子供がいれば
怒鳴りたくなるかもしれないし
手もあげたくなる瞬間だってあるかも知れない
そういうときのほんの一瞬の
母親の言葉や顔を子供は心に刻んで
自分が子供だったから傷ついたことを
大人になった今でもまだ「傷ついた」と感じてしまう。
被害者意識をガッチリ握っているから
「傷ついた」って思っちゃうんだよね。
でも本当は
親の子供の愛し方と
子供の願う愛され方が違っただけ
友達のお母さんみたいに
両手広げてギュッてしてくれなかったけど
膝枕で耳かきしてもらったり
お風呂上りに抱きつきながら濡れた髪を
タオルでワシャワシャーってしてもらうのが
うれしかった
うれしかったってことは
ちゃんと愛を感じていたってこと
だけどカタチが違ったから
わからなくて受け取ってなかったってこと
そう気がついたら
ありがたい
って
ピンクの文字使っちゃうくらい
あったかい、ありがたい気持ちが
湧いてきた。
何かをしてくれたから、みたいな
条件付きでなくて
ただただ
私の母親でいてくれたことが
ありがたい
はじめてそう思えました。
最後まで
読んでくださり
ありがとうございます。