唐突に彼女が言った。「アイラに行きたいの」と。
そりゃあ、僕は彼女に惚れているから希望は叶えてあげたいけれど、残念ながら時間も金も有り余っているわけじゃあない。
それに、彼女にとって「○○に行きたいの」は、病気のようなものだ。世界遺産を案内するテレビ番組を観ていた翌日にはチベット熱に冒されていたし、路地裏の猫を特集した写真集を図書館から借りてきた3日後には、マルタに行きたいと涙を浮かべていた。どうせ今回も、何かを観たか読んだりしたのだろう。


「ねえ、聞いているの?アイラ島に行きたいんだってば!」
何故彼女はあんなに怒っているのだろう。目を吊り上げて、大事なパートナーである僕をものすごい形相で睨み付けなければならないほど、アイラに行くことがそんなに彼女にとって重要なのだろうか。所詮旅行じゃないか。そんな消えてなくなるものに、必死で働いた金を費やす位なら、僕にだって欲しい車はあるし、新しいオーディオだって買いたい。彼女だけが、まるでアイラに行くことがこの世の唯一の正義であるかのように主張するなんて、なんだか不公平だ。僕にも苛立ちが感染する。


「聞いてるよ。でも行ったばかりだろう?だけど、そんなに行きたいならご自由にどうぞ」
「あなたは?」
「僕はいい。休みとれないし」


いつもの常套句だ。案の定、般若のような顔は絶望的な表情になる。そして、僕をキッと睨み付けると寝室に入ってバタンとドアを閉めた。
これでいいんだ。1時間もしないうちに彼女ははれぼったい目をこすりながら夕食の支度を始めるだろうし、明後日あたりには上機嫌でワインのコルクを抜いているはずだ。


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どうしてあの人をパートナーに選んでしまったのだろう。若い頃のあの人は、使いこまれた大きなスーツケースをひきずって年に何度も飛行機に乗る未来の妻を、誇らしげに見送ってくれたのに。土産話をするたびに、「僕も行きたいなぁ」なんて言いながら、昔自分が旅した国のことだって、楽しそうに話してくれたのに。
ベッドに顔をうずめて、泣き声を押しつける。涙と鼻水で息苦しいけれど、泣いているところを聞かれるのは癪に障る。


この国が嫌いな訳ではない。でも、ずっといると、息がつまる。かといって、外国に住みたい訳じゃない。年に1~2回でいいから、この小さな島国から抜け出して、外の空気を吸いたい。ただそれだけなのだ。鯉がパクッと池の水面に口を寄せるような、そんな必然的で自然な行為。なのに、「外国に行きたい」というたびに、勝ち誇ったように「行ったばかりでしょう」と言う夫。まるで水戸黄門が差し出す印籠か何かみたいに。冗談じゃない。前に行ったのなんて、もう何年も昔の話。この国に充満する粘着質な空気の重圧で、妻が窒息しかけているという切迫した事態にどうして気がついてくれないのだろう。


そして、既婚女が一人で海外に行けば聞かれる「あなたのハズバンドは?」の一言。遠慮がちだが憐憫と好奇心が見事に透けて見えるあの言葉の鬱陶しさを思い出して、何度パッキングの途中で全てを投げ出したことだろう。おまけに私は、夫の給料で生活している。そんな身分だ。


アイラ島なんかに興味があるわけではない。たまたま本屋で手にした村上春樹の文庫本から、見慣れたウィスキーの名前が飛び込んできただけ。

夫が大好きなウィスキー。アイラ島で作られるこのシングルモルトのウィスキーからは、海の匂いがする。「ウニや海鞘、海産物との相性が良いんですよ」というバーテンダーの言葉をカウンター越しに聞きながら、グラスを傾けていた夫。ページをめくるたびに現れる、海霧で柔らかくにじんだ島の景色と、あの時の夫の嬉しそうな横顔が重なった。その瞬間に思いついたのだ。「ここなら一緒に行ける。きっとこの素敵な提案に喜んでくれるはずだ」と。こめかみがズキズキと痛み、いつしか私は泣き疲れて眠ってしまう。


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休日の夕方。
いつものように夫はのんびりと新聞をひらき、ウサギのように真っ赤な瞳をした妻は、いつものように、夫と別れた場合のメリットとデメリットを考えながら、台所で静かにタマネギを刻む。
テーブルの端には、海の香りのする緑色の瓶。



written by 織部桃