東日本大震災の記憶 | にゃんこキキと私の毎日

にゃんこキキと私の毎日

20150624里親募集で家族に迎えたメス猫キキと夫との生活。
日々感じたことや経験した事、キキとの生活、趣味活動等綴っていこうと思います。

今日、ある映画を観ました。
遺体 明日への十日間

岩手県釜石市の遺体安置所を取材した石井光太氏のルポタージュ「 遺体 震災と津波の果てに」(新潮社刊)をもとに制作された映画です。この本は購入して読みました。

キャストに、
西田敏行、緒形直人、佐藤浩市、佐野史郎、沢村一樹、柳葉敏郎、筒井道隆、志田未来等々東北出身者含めて著名な俳優さんが出演されています。
岩手県釜石市は、私の故郷で高校卒業までを過ごした街。豊かな海や川、山があって田舎だけど、鉄で栄えた鉱山の街。ラグビーでも一世を風靡した時代がありました。
最近では、橋野高炉跡が世界遺産にも認定されました。
今は高校卒業してからずっと宮城県仙台市に暮らしています。

話は戻りますが、
震災の記憶というのは、約五年経った今でも薄れることはありません。
地震は来る度怖いし、記憶がフラッシュバックします。
避難所のラジオから流れてくる情報はよく知る地域に遺体およそ500体確認とか聞いているにも耐え難い内容で、いい意味でも悪い意味でも人間の素がみえる。


映画では、地震は少しだけで津波の映像は無く、被災者への配慮も感じられました。
それでも、当時を思い出しながら涙無くしては観られない映画でした。
あの1000年に一度と言われた未曾有の大災害、当時は電気も復旧に時間がかかり、テレビなんて観られませんでした。なので、どのように報道されていたのか、どういった状況にあるのかは当事者よりも他県に住む方の方が詳しかったと思います。避難所に貼られる1枚の新聞とラジオが主で後は物資主に食料の調達に一日の大半は費やしていました。
アルファ米って食べたことありますか?
小さなおにぎりを二人で一つ分けて食べたりしました。お腹空いているという感覚もよくわからなくなっている中で食べても全く美味しくないご飯です。
私の心もここにあらずといった状況で、なにせ電話も使えないから親はきっと死んだだろうと思っていましたから。住んでいた町は海抜3メートルでした。
小中学校は海岸線から約800メートル、自宅は学校から1,5㌔の場所にあり、ラジオから流れてくる情報で、父親はともかく内陸出身の母はきっと津波にのまれただろうと。
結論、震災から3日後の夜も明けきらない時間4時頃だったと思いますが、知り合いが貸してくれた携帯でふと母の携帯に掛けてみたところ生存が確認でき、避難所で大泣きしました。そこで、父と兄弟の安否が確認できましたが、消防団で最後まで高齢者の避難支援にあたっていた叔父が津波の犠牲になりました。震災から2週間で発見できたのは良かったですが、その叔父が働く姿を母は見ていたそうです。
斜め向かいのベッドで寝たきりのお婆さんとその息子夫婦、お婆さんを車に乗せて避難しようとしている最中、津波は押し寄せました。母もまた自宅の2階にいたところ津波によって自宅もろとも流されました。
寝室にいた母はベッドにしがみついていたそうです。頭側の板につかまって、目をつむりふと気が付くと遠野に向かう山側迄流されていて流れずに残っていた家と家の間に挟まっていたそうです。
寝室と床板がそのまま船のような役割を果たしたのでしょうか。そのフローリングというのも母方の祖父(大工でした)が一人で作ってくれたもので、学校の3階まで飲み込んだ津波の中信じられない奇跡でした。
奇跡はそれだけではなく、たまたま町内のプロパンガスの会社の方が母を発見して、ずぶ濡れで足を骨折していた母をおぶって避難所まで運んでくれました。
避難所に行った母は乾いた洋服をもらい、一晩過ごして翌日30キロ以上はあるだろう遠野の実家に向けて笛吹峠を歩いて向かったそうです。
そこでまた一つ奇跡が。たまたま母とかつて一緒に働いていた方が偶然車で通りかかり乗せていってくれたのです。足首を骨折していた母には歩いてなんて無理だったと思います。
※中学時代学校行事で遠野駅から学校まで歩くという過酷な催しに参加しました。
42,195キロ歩こう会みたいなタイトルだったかな。早朝出発して到着は夕方6時頃だったと思います。
更なる奇跡は母が唯一ポケットに入れていた携帯が故障しなかったこと。ガラケーで防水ではありません。
頭から黒い海水を被り、ずぶ濡れだったにも関わらず。母も私と連絡がつかなくて、どうなったかと心配していたそうです。
弟は11日が専門学校の卒業式で既に釜石に引越ししていましたが、震災当日たまたま盛岡に行っていて無事でした。
父は隣町の職場に居て山側だったので助かりました。父は震災後仕事を辞めて、遺体の捜索に参加しました。元自衛隊、消防団にもいた事で頼まれたと聞いています。
震災から日が経つ毎に腐敗も進んできます。膨張した遺体や身体の一部欠損したご遺体など発見したと後に聞かされました。その後、土木の仕事をしています。もう65歳です。今もまだ自宅の再建に向けて頑張って働いています。同じ町内で山側に土地を見つけて家を建てたいと話してくれました。子どもが帰ってくる場所を作りたいと。
隣に住んでいた弟の同級生は、大学の休みでたまたま釜石に帰ってきていて津波で流され亡くなりました。両親も共に。私も年の離れた弟や弟の幼なじみとその子の姉妹と幼い頃から一緒に遊んであげたりしていたので、ショックでした。今はその子の姉妹だけ助かったので今も元気でいることを祈っています。
私はというと、11日職場で震災にあい地下鉄など交通手段がなく自宅にも帰れなかったので、職場に寝泊まりして過ごしました。プロパンガスだったので、お風呂に入れたことはありがたかったです。
震災から2週間後、高速道路が復旧しました。私は、当時お付き合いしていた彼(今の主人)の車に様々な企業などから衣類や消毒等物資を集めて積み込み早朝釜石に向かいました。自衛隊の車が行き交う中、涙が溢れて止まりませんでした。
母と釜石の避難所を廻り、消毒等を届けました。
まとまりない文章ですが、おおまかに書くとこんな感じです。目に見たものは人の良い面ばかりではありません。道徳に反する事も目にしました。それだけ生きていくのに必死だったのでしょう。
ただ、許せなかったのは地元の海で震災のあった年の夏に浜辺でBBQを楽しむ若者がいたことです。盛岡から来た若者達でした。沢山の人の命が失われて、家族を亡くした人も多くいるのに、その町の人はどう思うでしょうか。
経験してないから面白半分で見に来て写真や動画を撮る人も何人かいました。「 すげ~!」とわぁわぁ言いながら。

私が釜石に行った時まだ、道路は自衛隊によってようやく片側1車線通れるようになったばかりで、まだ泥に埋もれた場所がほとんどでした。家があった場所に長靴で向かいましたが、信号機などどこからきたか分からないものが倒れていて、玄関のタイルがやっと見つかりました。数々の思い出も今は記憶の中だけです。
そんな中、ただの好奇心で見に来ていたのには無性に腹が立ちました。

また、海外では未だに福島や宮城には行かないようにと危険区域に指定している国があるそうです。その国の人に聞いたので間違いないと思います。国内にもいますからね。心のない人。福島の人に対していつまでも被害者面するなというコメントも見ましたし、故郷だろうが自分だったらそんなとこもう住めない、行きたくない。とか・・・当事者だから思う事、目の当たりにしたこと、言いたい事沢山あると思います。
私の実家があった場所も危険区域だからもう家は建てられないかもしれないけど、大事な故郷です。
福島では未だに住むことすら帰ることが出来ないでいる人が沢山います。
津波の後も、そのままの状態で廃墟街がありましたが、今ガレキの撤去が始まっています。
今一度、相手の気持ちになって考えてみる、思いやりを忘れないことが必要と感じます。

現時点で宮城県、岩手県では東日本大震災の行方不明者数1000人を超えています。毎月11日には遺体の捜索が海で行われています。ローカルなニュースでしか取り上げられていないでしょう。大抵はもういいでしょ。と思ってませんか。
釜石に帰る時、高速を使わなくなりました。主に45号線を通って各沿岸の復興状況を確認しながら帰るようになりました。

昨年帰った時の南三陸町や気仙沼市です。

奇跡の一本松の近く

各地嵩上げが進んでいます。

津波に流された駅の跡。ホームと線路が残っています。





壊れたまま

行けば必ず状況が見えてきます。ゆっくりわずかずつですが、訪れて確かめてください。